毒親に「毒親たる自覚」があるのか否かを考えるのは、被告人の「責任能力」の有無を問うのに似ている気がする。
責任能力がなかったとの判定が下った場合、被害者側の怒りは言うまでもない。「それがどうした!?」という気持ちだろうと思う。
毒親についても同じなんじゃないか?
私は以前「正真正銘の毒親にならないためにできること」というタイトルのブログを書いた。
数日して読み返してみると、ものすごい違和感を感じて速攻で「下書き」におろした。
「やってしまうのなら、せめて子どもに謝ろう」
ブログにはそういう風なことを書いた。
その時はそう思って公開したんだけれど、でも果たしてそうか?と思った。
親から傷つくようなことを言われた。でも「お前のことが嫌いで言ったんじゃないよ」と言われる。
親が人を口汚く罵った。でもすぐ後に「また言っちゃった、ごめんね」と言われる。
これってどうなのよ?
DVをする人は、暴力の後で人が変わったように謝るという。ごめん、ごめんと泣きながら謝ったり、妙に優しくなったりするという。
毒親が自分は毒親であるとの自覚を持って、子どもに謝ったり弁解したりするのって、どこかDV人と似てないか?
<嫌がることをやってしまった→謝る>を繰り返すだけで、嫌な目に合うのはずっと変わらない。
それって「毒が薄くなった」と言えるのかなぁ?
毒親の責任能力の有無って、毒をわざと吐いているかどうかってことになる。
わざとなら責任能力「あり」で、どうしようもなく吐いてしまうのなら「なし」になるのだろう。
毒親は、何らかの障害なり疾患なりを抱えている人が多いのではないかと思っている。
わざとなら、こんなおかしな人間はいないだろうし、我が子にわざと嫌がらせをするなんて、それこそ何かの疾患があるとしか思えない。
という事はですよ、毒親はすべからく「責任能力なし」となるのではないか?
毒親本人に自覚がなく、自覚があっても治すことができないのなら、それは立派な「責任能力なし」じゃないのか。
毒親育ちの私が苦しいのはここなんだよ。
どうしようもなくそうしてしまう親を責めてもいいのか?って思って、二重に苦しいんだ。
批判を恐れずに言うと、責任能力がないって、もうそれだけで罪だと思うよ。
被害者から「憎んでもいいんだ」っていう思いさえ奪ってしまうんだから。
「悪気がない」って本当に罪だよ。
なんだか頭の中がまとまらないので、あのタイトル記事は、やっぱり下書きのままお蔵入りだな。