つづき(その①はこちら)
私は繰り返されるパワハラ行為からすっかり委縮してしまい、ミスを連発するようになっていた。そして最後には始末書を書くまでの大きなミスをしてしまったのである。
そのことから『私は仕事ができない』と思い込んでしまったのだ。その思いが、私を長く長く苦しめることになるのである。
私がいた部署はとにかく騒がしかった。Aが一日中漫才芸を繰り広げているし、周りの人達(後輩や営業事務の人達)もAに同調するようになっていて、それはまるで小学校の休み時間のような雰囲気だった。因みに、隣の部署はいたって静かだったので、あの環境の悪さはAが作っていたのだと思う。
私は黙って集中しないと事務作業ができない。しゃべりながらなんて無理なのである。そんな騒がしい環境の中で仕事をすると、つまらないミスをしてしまうのだ。
この歳になれば「静かにしてほしい」と訴えることも、他の部署に替わりたいと願い出ることもできるが、当時の私は「その環境に慣れない自分が悪い」と思っていた。
私は騒がしさに慣れるのが無理で、つまらないミスをするようになっていた。それに加えてAのパワハラ行為が始まったのである。
でも私は、Aのパワハラ行為が「悪いこと」だとは気づかなかった。自分が悪いからこういうことをされるのだと思っていた。私は仕事ができない人間だからこんなことをされるんだ、仕方がないんだと思っていたのだ。
しかし自分を擁護するわけではないが、私は決して「仕事ができない人間」ではない。
その後いろいろな会社で働いたが、あんなに騒がしく環境の悪い会社は一つもなかった。私自身あんなにミスをすることもなかったし、パワハラや嫌がらせを受けたこともない。会社のオーナーや社長には随分と可愛がってもらった。今でも個人的な付き合いを続けている人もいるのだ。
それでもずっと「私は仕事ができない人間なんだ」と思っていて、誰もがするような小さなミスを一つしただけで、頭が真っ白になるような恐怖を感じていた。そして思うのである、「ほら、やっぱり私は仕事ができないんだ」と。
これが「パワハラの後遺症」なんだと、最近になって気が付いたのだ。
男性のセクハラ被害と一緒で、「被害を受けた」と自分ではなかなか気づかないのだ。
自分がミスをしたから悪いんだとか、男性の性被害でも、ふざけてただけかもとか、冗談だったのかもとか、はっきりと「セクハラだったんだ」と思いきれないのではないかと思う。だから何年もしてから「やっぱりあれは」と、はっきりと気づくのだろう。
でも、もう終わりにする。
私は「仕事ができない人間」ではない。はっきりそう思うことにする。
Aから受けたのは「パワハラ」だった。そう確信することにする。
私がたまにする小さいミスは、誰でも起こり得ることなんだ。だから震え上がるほどの恐怖を感じる必要はないのだ。
Aは酷い奴だったのだ。
自分の都合で人を痛めつけるような訳の分からない人間だったのだ。
それなのに、私は全部自分が悪い、自分の責任なのだと思い込んでしまった。そこが一番の間違いだったのだ。
「自分にはそこまでの非はない、そこまで悪くない、あいつの方が悪いんだ」
それが本当な場合もある。そう思わなくてはならない時もある。自分を守ることが必要な時もあるのだと、この歳になって気が付いた。