毒親育ちの毒親考察

私の母は何かがおかしい

宿命について考える その人がそうであるのは…

中高生の頃、よく「宿命」について考えた。

 

宿命とは、

『自分の意思に関係なくやってくる、避けて通れない、生まれる前から決まっていること』

だそうだ。

 

母と親子であること、そしてあの両親がいつもいがみ合っているのは、私の「宿命」なんだろうと思っていた。

 

そしてあの母がああだったのも、一種の「宿命」だったんだろうなと思う。

 

その人がそういう性格や特質を持っているのは、その人の責任ではない。

持って生まれたものであって、「そうなってしまっている」と言うのが正しいのだろう。

 

そうすると、母の暴言も嫌味も、母の責任ではないのだろう。

そういう人間として生まれてしまった、そういうことなんだろう。

そういう「脳」を持って生まれてしまった、そういうことなんだろう。

 

全てが「脳」の仕業だとするなら「人間に自由意志などない」となる。

自分の行動に「己の采配」など及ばないのだ。

 

そんな風に全てが「脳」の仕業だとするなら、一体人間とは何なのか?

 

どんな脳を持って生まれるか、

どんな環境に育つか、

そしてどんな社会で生きるのか。

 

その全ては「ガチャ」だ。

自分で選び決めることはできない、完全なガチャ。

 

人間とは、ガチャの結果で与えられた「脳」の、単なる入れ物に過ぎないのだろう。

 

だから、解決方法は「諦める」ってことなんだろうと思う。

自分がそうであることを、

相手がそうであることを仕方がないと諦めて受け入れる。

それしかないのだろうと思う。

 

考えないこと。

なぜそうなんだろうかと考えないこと。

 

それがすべてを受け入れるためには必要なんだろうけど、

同時にそれが一番難しいのだ。

 

 

母親が男の実子への虐待行為を黙認することについて思うこと(後ろ向き・自虐的な話です)

news.yahoo.co.jp

 

痛ましい事件だ。

心が痛くて辛い。

 

いじめを繰り返す人間の脳では、

人を虐めると「快楽」を感じる部位が活発化すると言う。

 

この男が「楽しい時間が始まるよ」と言ったのも、

実際、虐待行為が楽しくて仕方がなかったのではないかと想像する。

正真正銘の「人でなし」であり、異常者であり、鬼畜である。

 

しかし問題は、この鬼畜の行為を黙認した母親の是非であろう。

罪のあるなしについては司法が判断する。

しかし彼女の行動についての感想は、人によって様々だと思う。

 

私個人の感想としては、「ありがちな行動だな」である。

 

こういう事件を耳にするたびに思う。

大人は「大人」の味方しかしないのだ、と。

 

「大人」の味方しかしないと言うよりも、

人間は第一に「自分の保身」を考える。

だから結果的に「大人の味方しかしない」となるのだ。

 

だってそうだろう?

子どもの味方をしたところで何の利になる?

 

愛人である男の味方をして関係性を保つ方が、

この女(母親)にとっては利になるのだ。

 

「自ら率先したわけではない」という女の言い訳はその通りなんだろう。

彼女は自分の心境を、正直に語っているのだろうと思う。

 

率先したわけではないが、結果的にそうなってしまった。

「そうなってしまう」という状況は、何となく想像できる。

それはつまり、「なにも考えず流される」ということだろうと思う。

 

そして時には「子どもがいうことをきかない」などと、

男に頼るような、あるいは男を煽るようなことをしたりする。

男との関係性を捨てられないのだろうなと思ったりする。

 

そうやって目に前で起こっている惨事に”積極的に”介入しない、あるいはできないことで、実行犯である愛人の共犯者となってしまうのだろう。

 

しかし彼女が積極的に行動を起こさなかったことに対して、

外野から安易に非難することはできない。

もし女と同じ立場になったなら、自分も同じことをするかもしれないからだ。

 

どれだけの人が、

「絶対にそんなことはない、私は必ず子どもを守る!」と宣誓できるだろうか? 

 

コメント欄には、この女の行動を「考えられない」と非難するものが目立つ。

そして私は思う。そういうコメントを残す人達は、きっと育ちが良いのだろうと。

 

大人の利益の前には、

子どもの人権なんぞ簡単に捨てられる。

 

この事実を「そんなことあるわけない」と信じることができる、

そんな幸せな(嫌味ではない)人達なんだと、羨ましく思ってしまう。

 

私は子どもの頃から、

両親をはじめとする周りの大人から、守られたり守られなかったりしてきた。

それは大人たちの「気分」や「利益」や「都合」に左右されていた。

 

同じ状況下にあっても、時には守られ、時には守られない。

子どもにとっては理不尽で不条理だが、大人にとっては「普通のこと」なのだ。

だって大人は「不完全極まりないただの人」であり、神様ではないからだ。

 

ずっと前に、ある名門私立小学校の校長のインタビューを聞いたことがある。

小学校受験での面接や行動観察では何を見ているのか?という質問に対して、

「大人を信用しているかどうか」と答えていた。

 

なるほどなぁ…と感心した。

これは正解なんだろうな、と。

 

子どもが大人を信用できるという事は、

それまでの家庭環境や、周りの大人たちとの関係性が良好であることの証明になる。

 

それで言うと、私は完全にOUTだ。

信用するどころか「大人なんてそんなもの」と諦めていた。

育ちが悪いにも程がある。

そして私も立派な「毒親予備軍」である。

 

いずれにしても、

大人の都合で無残な死を遂げたこの少女の冥福を祈る。

もし来世なんぞというものがあるのなら、

穏やかな日常の中で笑って過ごしてほしいと願わずにはいられない。

 

 

『「鬼畜」の家』を読んで、<視点の硬直>が招く危うさを思った

*幼児虐待の内容が出てきます

 

『「鬼畜」の家』(石井光太著・新潮文庫という本を読んだ。

 

子どもの虐待死を題材にしたノンフィクションだが、どれもひどくメンタルが下がる内容だった。

 

その中で思ったのが表題にもあるように、親の「視点の硬直」は非常に危険だということだった。

 

私は子どもを可愛がった、

私は子どもの面倒をよくみた、

そうした親の自分に対する評価は全くの親自身の主観であって、周りから見るととんでもない思い違いである場合もある。

しかし重要なのはそうした主観の問題ではなく、その主観の間違いを正そうとしない「視点の硬直」にあると思う。

 

著書の第一章「厚木市幼児餓死白骨化事件」では、そのことがテーマとなっている。

 

事件の詳しい内容は割愛するが、著書内の次の部分が気になった。

少し長いが引用させて頂く。

 

幸裕はこれまでどおりドライバーの仕事をつづけながら、勤務中は理玖君を家に1人残しておくことにした。食事を与えるのは、出社前と帰宅後の一日二回で、いずれも近くのコンビニなどで買った、自ら言うところの「食事セット」(パン1個、おにぎり1個、レモンウォーター五百ミリリットルのペットボトル一本)だった。理玖君は自分で開封できないため、幸裕が開けて手渡していた。おむつ交換は一日一回で、入浴は数日に一度。外出は、月に二、三回実家の近くにある公園へ車でつれていって遊ばせた。

幸裕はこのような生活について、堂々と「ちゃんと育児してた」「フツーに面倒みてました」と語っている。

(*幸裕・理玖君の父親で事件の被告)

 

父親は本気で「息子を愛していた、可愛がっていた」と言い、息子をわざと死なせたわけではないのに、なぜ自分が19年の刑に処せられるのか分からない、と真剣に言うのだ。

 

理玖君は5歳の頃に亡くなっているが、それまでに一度だけ児童相談所が保護している。その時に記録によると、

 

理玖君は三歳になっても「会話をすることができない」で、「職員にかけられた言葉をおうむ返しに答えるだけ」、言葉も「日本語かどうかもわからないような奇声を上げ」ることしかできなかった。さらに「耳の中は垢」だらけで、「爪は伸びて」いて、食事を与えると「左手で手づかみで食べ」ていたらしい。

 

この状態を「フツー」と言い切る被告。

被告に知的障害や精神障害はないらしい。

 

『「鬼畜」の家』にはあと2つ幼児虐待の実話が載っているが、そこに登場する人物は全員どこか奇妙だ。

 

彼らは周りを見ないんだろうか?

 

彼らには「フツー」が分からない。

全員が劣悪な家庭環境で育っており、仕方がないのだろうと思う。「フツー」が分からない心細さや所在の無さは私にもわかるので心が痛い。しかし育った環境から得るものが無くても、「社会」から漏れ聞こえてくる情報があるではないか?

 

その情報をお手本にすることで、なんとか「フツー」に近づくこともできると思うのだが、被告達の目や耳には、そうした「情報」がまるで入ってこないのだろうか?

 

こういった事件が起こると、

「被告は孤立していた」という言葉を聞くことが多い。

 

しかしこの「孤立」というのは、

社会的な繋がりがないとか、交友関係が皆無というものだけを指すのではないと思う。

 

この本に出てくる被告達は皆、職場に通っている。友人がいる者もいる。それでも「孤立」状態にある。それは「視点が」孤立してるということではないだろうか?

 

彼らには他者視点がない。そして視点に柔軟性がなく硬直している。自分本位の視点だけで生きていて、周りを見る余裕がない。他者の意見や提案を受け入れ、自分を修正していくこともない。

 

人の中にいても、他人の言葉に反応しない。そういう意味で「孤立」を感じるのだ。

 

これは私が母に感じた違和感と同じだ。

 

自分の周りに存在しているフツーや常識、そういうものが頭に一つも入ってこない奇妙さがあった。

 

見ているはずなのに見えてない。

聞いてるはずなのに聞こえていない。

その結果、自分の「いびつな常識」を「これでいいんだ」と頑なに支持する頑固さ。

 

子育てに限らず人生の様々なことについて、他人や社会と比べたり照らし合わせたりして起動修正を繰り返す。そうやって自分の思い込みや偏った拘りを均して行くものだと思うのだけど、違うんだろうか?

 

私の母も「私は子どもを可愛がった」「私の子育ては間違ってなかった」としきりに言っていた。しかし残念ながら、私にその実感は乏しい。

 

視点に柔軟性がなく硬直している状態はこんなに怖い結果を招くのだと、改めて思い知らされた書籍だった。

 

 

産後鬱だったんじゃないか?っていう思い出話

20数年前、夏の暑い日に出産をした。

そして産後鬱のようになった。

 

当時は「カンガルーケア」と言うのが流行っていて、

大雑把に言うと、

生まれたての子どもをお母さんが胸の上に抱いて、

肌と肌の触れ合いをする、というものだった。

それをすると、いわゆる「健康で健全で良い子」に育つらしいのだ。

 

私はちょっとした難産で、

出産した直後から半失神状態になってしまい、

何時間も子供を抱くことができなかった。

当然「カンガルーケア」なぞやっていない。

 

退院して自宅に帰った後、

新聞で件の「カンガルーケア」の記事を目にしてしまい、

突然涙が止まらなくなってしまった

 

「この子はもう駄目だ。カンガルーケアをしなかったから、この子は健康には育たないに違いない」

という考えが止まらなくなって、絶望感でいっぱいになってしまったのだ。

 

軽い鬱状態だったのではないかと思う。

 

当時、流行っていたものがもう一つあって、

それは「母乳育児」だった。

 

「母乳で育てないとアトピー性皮膚炎になる」という”呪いの言葉”が流布していて、「何が何でも母乳で!」と新米母たちを脅迫していた。

 

知り合いなんぞは、子どもがガリガリに痩せていて、

夫からは「もうミルクでいいじゃないか」と言われているにも関わらず、

「イヤ、なんとしても母乳で」と夜も寝ずに数時間ごとの授乳に拘っていた人もいた。

 

実に気の毒である。

 

子どもに栄養を与えることができるのなら、

母乳でもミルクでもどっちでもいいのだが、

マスコミから流れる脅迫文に私もおびえていた。

 

私は母乳の出が悪く、早い時期からミルクに切り替えた。

だから世に流れていた「呪いの言葉」が怖かった。

「この子がアトピーになったら私のせいだ」と思い込んでしまい、

これまた涙が止まらなくなるのだ。

 

やはり鬱だったのではないだろうか?

 

出産した産院での「母親教室」で、

「育児本は読まない方が良い」としきりに言われた。

 

今その意味が良くわかる。

育児本には「脅迫」と「呪いの言葉」が溢れているからだ。

 

終わってしまえば「そんな事あるかいな」と思う事でも、

初めての育児という未知の世界に飛び込んだ新米かーさんにしてみれば、

どれもこれも「唯一無二の真実」に思えてしまう恐れがあるからだ。

(私はそうだった)

 

雑誌やTVなどのマスコミというものは、

「心配させて物を売りつける」のが商売なのであって、

接すれば接するほど不安が募る仕組みになっているのである。

 

だから、心が弱っている時や迷っている時には、

なるだけ離れているのが良い。

子育て中もそうだ。

 

初めての子育ては、迷いや恐れ、不安が渦巻く。

そういう時にマスコミは禁忌なのである。

 

困った時には、公的機関の保健師や産院を頼った方が良い。

親や子供の状況に合った常識的な助言をくれると思う。

 

ふと思い出した昔のこと。

小さな事でいちいち悩んでいた時期だったなぁ…と。

 

あぁでも、今でもそうか、

ちいさなことでいちいち悩んで怖がってるよなぁ…

産後鬱というよりも、単なる私の性格なのかもしれないな。

 

因みに、

カンガルーケアもせず、ミルクで育った我が子だが、

アトピー性皮膚炎にもならなかったし、

普通のまっとうな大人に育っている。

 

…そんなもんである。

 

 

『毒親』と『核家族』の問題

わが実家の毒親問題を解決するには、

家の中にたったひとり、

良識のある、

落ち着いた対応の出来る「大人の人」が必要だった。

 

父親がいるじゃないか?と思うかもしれないが、

父親というものは、

最初は配偶者の「おかしさ」を制止していても、

そのうち段々と配偶者寄りになってくるというか、

「もういいっか…」という感じになってしまいがちなのだ。

 

だから、

「両親」以外の大人の関りが、

毒親家庭には必要だと思うのである。

 

母は祖母から、

「あんたは舅姑との同居は絶対にできない」と、

常日頃から言われていたらしい。

母の気性を考えると、それも当然な意見だと思う。

 

でも子どもの立場としては、

実の親や、舅なり姑なりがいてくれた方が良かった。

但しその親や舅姑は、

何度も言うように”大人”でなくてはならないが。

 

「お母さんの暴言はくしゃみと同じ、気にすることないよ」と言ってくれたなら、どれほど心が落ち着いただろう。

「○○ちゃんはいい子だよ、大丈夫だよ」と言ってくれたなら、どれだけ私は救われただろう。

 

別に母を注意したりしなくてもいい。

ただ母の暴言のフォローをしてくれれば、

私は十分幸せだったのではないかと思うのだ。

 

核家族の問題は昔からあれこれ言われているが、

毒親」のいる家庭では、更に問題になると思う。

 

舅姑の気性にもよるが、

核家族」というものは親にとっては楽かもしれないが、

子どもにとっては過酷な環境になる可能性もある。

 

家に居る大人が「親」しかいない環境では、

親からのインパクトが強くなり過ぎるからだ。

 

緩衝材が全くない状態でダイレクトに攻撃されるのは、

子どもにとって「過酷な環境」と言わざるを得ない。

特に、親に何らかの問題がある場合は、

そのインパクトは何倍にも膨らんでしまう。

 

攻撃だけではない。

子どもが受け取る価値観や倫理観にも影響するだろう。

 

しかし今の時代、

子どもが大勢の大人の中で暮らすことは現実的ではない。

 

実際にできることは、

家庭以外の居場所を増やすことだろうか。

 

保育所や学校、学童保育や習い事。

専門職の大人が付いていて、安全に過ごせる場所。

 

2026年から始まる『こども誰でも通園制度』

 

とても良い政策だと思う。

月10時間程度と時間的には少ないが、

ないよりは全然ましで、今後に向けて拡大していってほしいと思う。

 

親が就労していようとしていまいと、

子どもは誰でも保育園に行く権利がある。

家庭から離れる権利があるのだ。

 

家庭は素晴らしいとか、

親子の絆とか、

そんなきれいごとばかり並べるどこかの誰か達に負けずに、

子どもの居場所をどんどん増やしてあげてほしいと願っている。

 

 

毒親のタイプ、どれもしっくりこないのは、 母には何の目的も意思もなかったから

毒親のタイプ、

サイトによって表し方は色々だが、

大別するとこんな感じだろうか。

 

過干渉型

支配型

ネグレクト・無関心型

暴力・虐待型

 

うちの毒母は「暴力型」になるんだろうか。

「無関心」も入るかもしれない。

 

でもこの分類に何となく違和感を感じてしまう。

うちの毒母はどのタイプも違うような気がするからだ。

 

理由は、

母の暴言の先には、「目的」なんてなかったのではないかと思うからだ。

 

サイトの記事を読んでいると、

大抵そこには「~しようとする親」と書いてある。

 

子どもの人格、能力、容姿、全てに関して否定してくる。

(子どもを全否定して自己主張できないようにし、コントロールしようとしてくる。)

 

普通であれば子どもが褒められるようなことをしても難癖をつけて、けなしてくる。(子どものことは絶対に褒めない。)

 

『のびしろ心理学研究所』 より

 

「~しようとする」「絶対に~しない」には、

親側の「目的」と「意思」が感じられる。

 

でも母からは、そういった目的や意思は感じられず、

「瞬間的にしてしまう」だけだったのではないかと思うのだ。

 

子どもをコントロールしようとも思ってなかっただろうし、

難癖をつけている気も、

貶している気もなかったのだろう。

 

そもそも母には、

そういった「先の結果」を想像する能力は無かった

 

だから、

その瞬間「そう思った」から「そう言った」という、

単なる「生理現象」だったのだろうと思うのだ。

咳やくしゃみが出てしまうとか、あくびと同じだ。

 

何度も繰り返し書いているが、

要するに母は、

自分の言動をコントロールできない困った人だったのだろう

おまけに、

他人を不快にさせる言動が何なのかが、本当に分からない人だったのだろう。

 

誰だって、ポロっと言ってしまうことはあると思う。

でもいつもいつも、

継続的に要らぬ暴言を吐き続けるのは「異常」だと思う。

 

しかし母が言うには、

「いちいち考えていたら、何もしゃべれなくなる!」らしく、

そして「言ったことなんて、いちいち覚えてない」んだから、

「私のいう事なんて聞き流せばいい」のであって、

不満を訴えるのは「執念深い」のだそうだ。

 

やれやれ…

 

こういう一連の事が分かったのは、

このブログを書くことで、

母の事を改めて考えるようになってからだった。

 

もっと早く気が付いていればなぁと思う。

 

子どもの頃は、

母にも意思や目的があると思って疑わなかった。

大人が「単なる生理現象」で暴言を吐くとは思わなかったからだ。

 

だから「私がこうだから、母にあんなこと(暴言)を言われるのだろう」、

そう思って傷ついていた。

母が気に入るような自分に変えないと、と必死になってた。

 

なんとバカバカしいことだ。

母の「無意識」に振り回されていただけなんて。

ものすごく無駄な回り道をしたなぁ…と思うと悔しくなる。

 

まぁでも、

母の暴言が生理現象だったとしても、さらりと聞き流せるわけでもなく、

不快な事には変わりはない。

 

無意識なだけに矯正は難しかっただろうから、

非常に厄介な人だったことには間違いないだろう。

 

 

原因が分からないと進めない、そんな自分の性分が恨めしい

前回にも引用させて頂いたブログ、

ずっと健常者だと思っていたら実は知的障害者だった人が綴るブログ

 

読めば読むほど、

やはり母には、知的な問題があったのではないか?

という疑惑が濃くなっていく。

 

それにしても、

私はなぜこんなにも、母の問題にこだわってしまうのだろう?

 

私を悩ませた母は、もうこの世にはいない。

母がどうだったかなんて、もうどうでもいいではないか?

 

メンクリの先生にも、そう言われた。


でも私は、

どうでもいいとは、どうしても思えない。

母は何が原因でああだったのか。

それがわからない事には、一歩も進めないのである。

 

しかし同時に怖くもある。

母の原因が分かれば、

私は多分、遺伝の問題が心配になるだろう。

 

知らなかったとはいえ、

子どもに申し訳ないとか思ってしまう。

子どもの子どもに発現したらどうしよう、などと考えてしまう。

 

そうやって私は毎日、

心配の種を自ら育て、自分を苦しめ追い詰めている。

そんなことはもうやめたい、

でもやめられない。

まるでMのようだ…