毒親育ちの毒親考察

私の母は何かがおかしい

姫野カオルコ著『謎の毒親』を読んで・ 「我が子」=「小さい体の人間」=「丁稚」という解釈に共感したことについて

姫野カオルコ氏の実体験をもとにした「謎の毒親

姫野さん=「ヒカルさん」が相談文を送り、それに対して回答者が返信するという形式の小説だ。

 

小説の中に現れるヒカルさん(姫野氏)のご両親は、本当に「謎」だった。

 

なぜそんなイヤなことを娘に言うのか? 

なぜ娘にそんな不可解な行動をとるのか?

 

ご両親が何を考えていたのか、全く訳が分からない。

 

読書感想で「気持ちが悪くなり読むのをやめた」と書いている人がいたが、本当にそんな気分になる内容だ。

 

殴る蹴るの暴行を加えたり、ネグレクトだったり、そういう「目に見える虐待」はない。しかし両親から日々受ける「毒」は、確実にヒカルさんの心を傷つけ蝕んでいく。

 

著書には、不可解な両親に対してこんな回答があった。

 

旧態の親の感覚ながら基本的には我が子のことは愛している。しかし、憂鬱症のために、配慮や注意や、親が被保護者に払うべきものを大幅に欠いてしまった。

そのためヒカルさんのことを、「小さな子がいる」とだけとらえてしまう。大雑把に、杜撰に。

<中略>

家庭内労働の便利な担い手。いわば丁稚小僧です。丁稚だから塾や習い事をさせようとは思いもつかない。させるべきは労働。そのときの気分で(ムラのある気分で)、主や番頭からアタられても、労働組合もない旧態の徒弟制度の内では”当然”のことです。

丁稚を憎んでなどいない。ちゃんとかわいいと思っている。暖簾分けしてやろうと大雑把に思っている。悪意も排斥もない。

 

「なるほど…「丁稚」か…」と思った。

私の両親も、こんな感じだったのかもしれないな。

 

『親が被保護者に払うべきものを大幅に欠いてしまった』

子どもを「丁稚」のように思い扱う理由は、これに尽きる。

 

「家の中でくらい気を抜いてもいいだろう?」

そうだね、家の中では気を抜いてもいいよ。

 

でも気を抜く中でも、子どもに対しての「配慮」や「注意」は必要だよね?

ヒカルさんの両親も、私の両親も、この考えがなかったんだろう。

 

子どもなんて、何だか知らないけどひょっこりそこにいる「小さい人間」であって、雨風しのげる家に居させてやり、食べさせて着せているんだから、それで親の役目は果たしている、そう思っていたのだろうと思う。

 

だから子供を怖がらせたり、嫌がることをわざとやってその様子を見て喜ぶ、なんていう<あそび>をしたりするんだろう。

 

家庭内では思いっきり気を抜いているから、思ったことを思ったままに口にするのだろう。子どもの容姿や体型を貶したり、人の悪口も言いたい放題。

 

子どもが外で言いふらさないこと、自分が不利な立場にならないことがわかっているので、それこそ「垂れ流し」状態で言い続ける。そして気に入らないことがあれば、所かまわずわめくのだろう。

 

それもこれも、

『子ども=小さい体の人間=丁稚どん』としか思っていないからなんだろう。

 

だんだん馬鹿らしくなってきた。

 

何も考えてない人の、何も考えてない行為や言動に対して、あれこれ憎んでいることが、あほらしくなってきた。