痛ましい事件だ。
心が痛くて辛い。
いじめを繰り返す人間の脳では、
人を虐めると「快楽」を感じる部位が活発化すると言う。
この男が「楽しい時間が始まるよ」と言ったのも、
実際、虐待行為が楽しくて仕方がなかったのではないかと想像する。
正真正銘の「人でなし」であり、異常者であり、鬼畜である。
しかし問題は、この鬼畜の行為を黙認した母親の是非であろう。
罪のあるなしについては司法が判断する。
しかし彼女の行動についての感想は、人によって様々だと思う。
私個人の感想としては、「ありがちな行動だな」である。
こういう事件を耳にするたびに思う。
大人は「大人」の味方しかしないのだ、と。
「大人」の味方しかしないと言うよりも、
人間は第一に「自分の保身」を考える。
だから結果的に「大人の味方しかしない」となるのだ。
だってそうだろう?
子どもの味方をしたところで何の利になる?
愛人である男の味方をして関係性を保つ方が、
この女(母親)にとっては利になるのだ。
「自ら率先したわけではない」という女の言い訳はその通りなんだろう。
彼女は自分の心境を、正直に語っているのだろうと思う。
率先したわけではないが、結果的にそうなってしまった。
「そうなってしまう」という状況は、何となく想像できる。
それはつまり、「なにも考えず流される」ということだろうと思う。
そして時には「子どもがいうことをきかない」などと、
男に頼るような、あるいは男を煽るようなことをしたりする。
男との関係性を捨てられないのだろうなと思ったりする。
そうやって目に前で起こっている惨事に”積極的に”介入しない、あるいはできないことで、実行犯である愛人の共犯者となってしまうのだろう。
しかし彼女が積極的に行動を起こさなかったことに対して、
外野から安易に非難することはできない。
もし女と同じ立場になったなら、自分も同じことをするかもしれないからだ。
どれだけの人が、
「絶対にそんなことはない、私は必ず子どもを守る!」と宣誓できるだろうか?
コメント欄には、この女の行動を「考えられない」と非難するものが目立つ。
そして私は思う。そういうコメントを残す人達は、きっと育ちが良いのだろうと。
大人の利益の前には、
子どもの人権なんぞ簡単に捨てられる。
この事実を「そんなことあるわけない」と信じることができる、
そんな幸せな(嫌味ではない)人達なんだと、羨ましく思ってしまう。
私は子どもの頃から、
両親をはじめとする周りの大人から、守られたり守られなかったりしてきた。
それは大人たちの「気分」や「利益」や「都合」に左右されていた。
同じ状況下にあっても、時には守られ、時には守られない。
子どもにとっては理不尽で不条理だが、大人にとっては「普通のこと」なのだ。
だって大人は「不完全極まりないただの人」であり、神様ではないからだ。
ずっと前に、ある名門私立小学校の校長のインタビューを聞いたことがある。
小学校受験での面接や行動観察では何を見ているのか?という質問に対して、
「大人を信用しているかどうか」と答えていた。
なるほどなぁ…と感心した。
これは正解なんだろうな、と。
子どもが大人を信用できるという事は、
それまでの家庭環境や、周りの大人たちとの関係性が良好であることの証明になる。
それで言うと、私は完全にOUTだ。
信用するどころか「大人なんてそんなもの」と諦めていた。
育ちが悪いにも程がある。
そして私も立派な「毒親予備軍」である。
いずれにしても、
大人の都合で無残な死を遂げたこの少女の冥福を祈る。
もし来世なんぞというものがあるのなら、
穏やかな日常の中で笑って過ごしてほしいと願わずにはいられない。