毒親育ちの毒親考察

私の母は何かがおかしい

『「鬼畜」の家』を読んで、<視点の硬直>が招く危うさを思った

*幼児虐待の内容が出てきます

 

『「鬼畜」の家』(石井光太著・新潮文庫という本を読んだ。

 

子どもの虐待死を題材にしたノンフィクションだが、どれもひどくメンタルが下がる内容だった。

 

その中で思ったのが表題にもあるように、親の「視点の硬直」は非常に危険だということだった。

 

私は子どもを可愛がった、

私は子どもの面倒をよくみた、

そうした親の自分に対する評価は全くの親自身の主観であって、周りから見るととんでもない思い違いである場合もある。

しかし重要なのはそうした主観の問題ではなく、その主観の間違いを正そうとしない「視点の硬直」にあると思う。

 

著書の第一章「厚木市幼児餓死白骨化事件」では、そのことがテーマとなっている。

 

事件の詳しい内容は割愛するが、著書内の次の部分が気になった。

少し長いが引用させて頂く。

 

幸裕はこれまでどおりドライバーの仕事をつづけながら、勤務中は理玖君を家に1人残しておくことにした。食事を与えるのは、出社前と帰宅後の一日二回で、いずれも近くのコンビニなどで買った、自ら言うところの「食事セット」(パン1個、おにぎり1個、レモンウォーター五百ミリリットルのペットボトル一本)だった。理玖君は自分で開封できないため、幸裕が開けて手渡していた。おむつ交換は一日一回で、入浴は数日に一度。外出は、月に二、三回実家の近くにある公園へ車でつれていって遊ばせた。

幸裕はこのような生活について、堂々と「ちゃんと育児してた」「フツーに面倒みてました」と語っている。

(*幸裕・理玖君の父親で事件の被告)

 

父親は本気で「息子を愛していた、可愛がっていた」と言い、息子をわざと死なせたわけではないのに、なぜ自分が19年の刑に処せられるのか分からない、と真剣に言うのだ。

 

理玖君は5歳の頃に亡くなっているが、それまでに一度だけ児童相談所が保護している。その時に記録によると、

 

理玖君は三歳になっても「会話をすることができない」で、「職員にかけられた言葉をおうむ返しに答えるだけ」、言葉も「日本語かどうかもわからないような奇声を上げ」ることしかできなかった。さらに「耳の中は垢」だらけで、「爪は伸びて」いて、食事を与えると「左手で手づかみで食べ」ていたらしい。

 

この状態を「フツー」と言い切る被告。

被告に知的障害や精神障害はないらしい。

 

『「鬼畜」の家』にはあと2つ幼児虐待の実話が載っているが、そこに登場する人物は全員どこか奇妙だ。

 

彼らは周りを見ないんだろうか?

 

彼らには「フツー」が分からない。

全員が劣悪な家庭環境で育っており、仕方がないのだろうと思う。「フツー」が分からない心細さや所在の無さは私にもわかるので心が痛い。しかし育った環境から得るものが無くても、「社会」から漏れ聞こえてくる情報があるではないか?

 

その情報をお手本にすることで、なんとか「フツー」に近づくこともできると思うのだが、被告達の目や耳には、そうした「情報」がまるで入ってこないのだろうか?

 

こういった事件が起こると、

「被告は孤立していた」という言葉を聞くことが多い。

 

しかしこの「孤立」というのは、

社会的な繋がりがないとか、交友関係が皆無というものだけを指すのではないと思う。

 

この本に出てくる被告達は皆、職場に通っている。友人がいる者もいる。それでも「孤立」状態にある。それは「視点が」孤立してるということではないだろうか?

 

彼らには他者視点がない。そして視点に柔軟性がなく硬直している。自分本位の視点だけで生きていて、周りを見る余裕がない。他者の意見や提案を受け入れ、自分を修正していくこともない。

 

人の中にいても、他人の言葉に反応しない。そういう意味で「孤立」を感じるのだ。

 

これは私が母に感じた違和感と同じだ。

 

自分の周りに存在しているフツーや常識、そういうものが頭に一つも入ってこない奇妙さがあった。

 

見ているはずなのに見えてない。

聞いてるはずなのに聞こえていない。

その結果、自分の「いびつな常識」を「これでいいんだ」と頑なに支持する頑固さ。

 

子育てに限らず人生の様々なことについて、他人や社会と比べたり照らし合わせたりして起動修正を繰り返す。そうやって自分の思い込みや偏った拘りを均して行くものだと思うのだけど、違うんだろうか?

 

私の母も「私は子どもを可愛がった」「私の子育ては間違ってなかった」としきりに言っていた。しかし残念ながら、私にその実感は乏しい。

 

視点に柔軟性がなく硬直している状態はこんなに怖い結果を招くのだと、改めて思い知らされた書籍だった。