毒親育ちの毒親考察

私の母は何かがおかしい

醜形恐怖症ぎみな私と「美貌は周囲を歪める」という論理

 

自分の顔はどれが本当?

 

私は中学生の頃から、醜形恐怖気味なところがある。

 

特に思春期の頃が一番ひどかった。

人々が私の見た目を笑っているような気がして、バスや電車に乗れない時期もあった。

乗れたとしても立っていられない。

立つと目立つような気がして、すぐに座席に座っていた。

少しでも埋もれていたかったのだ。

 

そういう恐怖や不安は20歳の頃には無くなったが、今でもやっぱり、自分の容姿や見た目は気になって仕方がない。

 

時々、鏡を見ていて思う。

私が今見ているこの顔は、誰の目にも同じように映っている顔なんだろうか?と。

 

写真で撮った顔と鏡に映る顔は違う。

映像はもっと違う。

 

芸能人だって、スマホで撮ったオフショットと画面の中で見る顔は全然違ったりする。

光の当て方やメイクのせいもあるが、「表情の切り取り」だからそうなるんだと思う。

 

そうなんだろうけど、鏡に見る自分の顔に比べて、写真の顔があまりに不細工なのはどうしてなのか。

 

ひょっとして鏡の中に見ているのは”ひいき目”の顔であって、実際の顔とは違うんじゃないか?なんて思ってくる。

 

自分が見ている顔よりもブサイクな顔が、実際に人の目にさらされている自分の顔なんじゃないかと思うと、外を歩くのが不安になるのである。

 

同学年に美女3人

 

私が自分の容姿を異常に気にするようになったのは、小学校高学年の頃からだ。

原因は「美人に囲まれた」からだと思っている。

 

当時私が通っていた小学校は、1学年60人ほどの小さな田舎の学校だった。

その小さな学校の同学年に3人の美女がいた。

 

すぐにでも女優として芸能界入りできそうな正統派美人2人と、フランス系のハーフのような顔立ちをした美女だ。

ネットで探したところ、フランス人歌手・アリゼという人に似ている。

 

3人とも小学生と思えないくらい大人っぽくて、本当にきれいだった。

田舎の小学校に3人とは、すごい確率じゃないだろうか?

この3人が同学年にいるんだから、同じ女子としては堪らないものがあったよ。

 

アリゼ

 

美人は得だと知る

 

これは彼女たちの責任ではないし、実際のところ、彼女たちは誰にでも親切で穏やかでフレンドリーだったが、やはり子供心にも「美人は得だなぁ」と思わせることがあった。

 

その第一は、教師の対応が明らかに違う、という事だ。

 

彼女たちは”叱られる”という事がなかった。

 

そもそも叱られるような事をしないんだが、とはいえ小学生だからたまには何かあったりする。

 

しかしそんな時でも、一緒にいた”一般女子”は注意を受けるが、彼女たちは名指しでは叱られない。

 

「そんなことあるの?」と思われるかもしれないが、本当なのだ。

少なくとも、昔の田舎の私が通った小学校ではそうだった。

 

この傾向は中学になって加速したように思う。

ほとんどの教師はまともだったが、一部の「とんでも教師」が露骨な「扱い差別」を繰り返していた。

 

ある時など「○○(件の美女)の友達だからっていい気になるなよ!」と怒鳴っていたこともあった。

あきれる発言だが、昔の田舎の「とんでも教師」なんてこんなものだ。

 

スクールカースト」というものが問題になったりするが、あれって実際には教師も加担してたりするのだ。教師も人間だから、美しい者や人気のある者には弱いのだろう。

 

こんな事を日常茶飯に見ていてると、「美人はなんて得なんだろう」と思うようになってもおかしくないだろう。自分もあんな風になりたい、向かうところ敵なしの顔面が欲しいと思うようになっても責められないのではないだろうか。

 

美貌は場を歪める

 

岡田斗司夫氏がこんなことを言っていた。

「著しい才能は、周りを歪ませる作用がある」と。

著しい才能は一般人にとって負担であり、不自然な場を形成してしまうと言う。

 

才能とは「秀でた何か」だ。

勉強やスポーツ、何でもいい。その中には「美貌」も入る。

 

秀でた美貌は周りを歪ませ、不自然な場を作ってしまう。

 

そのことは実体験として理解できる。

 

美貌の持ち主に責任は一切ないのだが、秀でた美貌は、その場のパワーバランスを歪める作用があると思う。極端に言うと、美女が一人いるだけで、その集団の関係性が破壊される事だってあるのだ。

 

美女にとっては「そんなことを言われても…」と困惑するばかりだと思うが、望むと望まざるに関わらず、美女にはそのくらいのパワーがあるという事だ。

 

(*ただし岡田氏は別の動画で「美貌」は才能ではなく「因果」や「ハンディキャップ」だと言っている。才能は隠すことができるが、美貌はそれができないので一種の「枷」である、と)

 

整形が「普通」になったけど

 

昔に比べて、美容整形が一般的になった。

SNSの影響が大きいんだろうね。

 

しかし、美容整形で誰もが飛び切りの美女やイケメンになれるわけではない。

 

整形で変えられるのは2mmや3mmの変化でしかなく、もともとの骨格や配置を大きく変えることは、骨切りや短縮を繰り返しても無理なんだと思う。

 

どうしても元の面影が残ってしまうか、それさえも消そうとすると、宇宙人のような奇妙な整形顔になってしまう。

 

美容整形系の動画をよく見るが、やはり天然の美女や、一か所だけ変えた(鼻だけ、目だけなど)美女には敵わないな、と言うのが正直な感想である。

 

しかし別に美容整形には反対ではないし、コンプレックスを抱えて生きるくらいなら、整形して明るく生きればいいと思っている。

 

私も一度だけ相談に行ったことがあるが、勇気が無くてできないでいる。

思ったのとは違う出来になったり、今よりもっと変になることが怖いのだ。

 

でもいい加減、顔の事でとやかく考えることから解放されたい。

 

歳を取ったら自由になれるかもと思っていたが、いや、全くそんなことはなかった。

というか、益々悩みは増えるばかりとなっている。

 

いつの日か解放される日が来るんだろうか、

そのために整形に挑んだ方が良いんだろうか、

悩む日々は続く…のである。

 

*『才能は周りをおかしくする』の元ネタ(岡田斗司夫) 

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