長い前置きになるけれど
以前見ていた動画の中に、ASDの女性が語る”発達障害解説”みたいな動画があった。同じ障害をもつお子さんたちの話もあって、なかなか興味深い動画だった。
その中に「発達障害者は経験から学べない」という話があった。
「社会常識」というものについて、「定型発達」と言われる人々は成長の過程で自然とに身に付けるが、発達障害をもつ人々は、そこに何らかの支援や工夫が必要になる、という話だった。
その具体例として、長男君(ASD強めADHD併発・小学校高学年)の行動が挙がっていた。
ある日、父親・弟と一緒に車で出かけ帰宅した際に、
「最後に降りた人は車のドアを閉めてね」と父親から言われた。
長男君は最後に降りたのは自分だったので、
言われた通り車のドアを閉めた。
後日、同じように車で帰宅した際、
長男君が車を降りた瞬間、
後から降りた弟が走って家に入ってしまった。
長男君はドアを閉めずにそのまま家に入ろうとするので、
父親は「車のドアを閉めてくれる?」と言った。
ところが長男君は
「最後に降りたのは弟だから、弟が閉めないといけないんだよね。弟を連れてくるよ」と弟を呼びに走っていった。
(*嫌味でも嫌がらせでもなく、真剣に言っている)
これは、古典的な自閉症スペクトラムの特性だという。
長男君は「最後に降りた人がドアを閉める」を言葉通りに捉え、臨機応変な対応ができない。
通常は生活の中で「最後に降りた人は…」という言葉が「もう降りる人がいない時は車のドアを閉める」と同意なんだなと理解できるようになる。
ところが彼の頭の中では、過去に経験した事柄がバラバラに並んでいるだけで、それらを関連付けることができない。だから人が発した言葉を「言葉通りに」受け取ってしまうという。
こうした特性に対する対策は、取るべき行動を「パターン」として覚える事だという。
大変だろうなと思うが、長男君はお母さんと一緒に「こういう時はこうする」という行動様式を覚え、少しずつ対応できるようになっていくのである。
知能が高いということ
ここで私が思うのは、このお母さんとお子さんはきっと頭が良いのだろうなという事である。
ご自身の障害に対しての理解と対策ができて、その上お子さんへの対応も行える。これは知能が高くないとできないと思う。
事実、お母さんは自身のIQを「125」と公表している。
これはかなり高い数値である。
きっとお子さんも遺伝的に高い知能を持っているのではないかと思う。
(*お母さんは「知能が高くても学校の勉強ができても、それだけでは生きることが難しい」とおっしゃっていて、彼女のそれまでの苦労が垣間見えるようで辛いのだが…)
このお母さんと私の母の言動や行動、ものの考え方や分析力などなどを比べてみると、それこそ雲泥の差なのである。
私は最初、母の「頭の悪さ」は「発達障害」からくる特性で、「そう見えるだけ」ではないかと思っていた。
しかし他の発達障害の方々を見るにつけ、これは「知能の問題」かもしれないと思うようになったのである。
母には発達障害があったと思うのだが、その根底には「知的能力が低い」という問題があって、それが母の「あの厄介さ」の主たる原因だったのではないかと思うのである。
知能の低いということ
知能が低いと言うのは、つまりは認知能力が低いこと。
読解力が乏しい事とイコールになる。
母は「説明」を聞くのが嫌いな人だった。
論理的な話も嫌いで、「簡単に言って!」と良く言っていた。
だから流行りの政治家の、短くてわかりやすい言葉が大好きだった。
現実には簡単に言えない事なんて山とある。
わかってもらおうと思えば思うほど、理屈臭い話になってしまう(理屈臭いと言っても、そんなに難しい話じゃないんだけど…)。
言葉をかみ砕き、できるだけ単純化して話しても無理な時は無理。
本人も「良くわからんけど、こうしたらいいんやろ」と不機嫌になったりする。
そうなると、最終的には理屈抜きの単なる指示になってしまう。
事務的なことはそれでも良い。
でも問題はコミュニケーションに関してで、「説明なしの指示」は「命令」になってしまうのだ。
「そういうことは嫌な気分になるから言わないで」と、こちらは「お願い」しているつもりでも、母には「命令されている」ように感じるようだった。
なぜ嫌な気持ちになるのかがわからないし、その説明をしても理解できないし、ただ「するな!」と言われているように感じるのかもしれない。
だから言われた事に従ったとしても1,2か月が限度で、「しちゃダメ、言っちゃダメ」のストレスからか、緊張が切れた時の爆発がすごかった
(無意味にわめかれるか、娘にいじめられている、虐待されていると言い出す)。
理屈は理解できない。でも命令されるのは嫌。
八方塞がりとはこのことではないだろうか…
<この件を深堀したいので、次回に続く>