ブログやツイッター、動画などの様々な方法で、「自分はどこかおかしい」ということを発信している人は多くいる(「おかしい」と言う表現が適切かどうか…)。
自ら発信するのだから、彼らには「気付き」がある。その原因がすでに判明していることもあるし、「かもしれない」な場合もある。
いずれにしても自ら「おかしい」と気づき、しかるべき専門家に相談し、原因をはっきりさせ、現状を改善してゆきたいという強い思いを持っておられるのだと思う。
これは素晴らしいことだと思う。
本人にその自覚があるかないか、対処したいと思っているのどうなのか。これが事態を少しでも良い方向に向けるための最低条件になるからだ。
その人が「そう」であることは変わらない。でも軋轢を減らすことは可能かもしれない。
以前、動画で「こういうこと(対処しようと動くこと、その方法を実践すること)をするには、ある程度の知能が必要で、誰にでもできることではない」という精神科医の意見を聞いたことがある。
なるほど、と思った。
あるASDの方が、動画でご自身の会話についての対処法を語っておられたのを思い出した。
その方は何と、今まで体験した会話パターン、人から教えてもらった会話方法、失敗例など、できる限りの「会話の型」を覚えているんだという。
そして「今はこのパターンを使うんだな」と頭の中から合致する型を引き出して使っていると。
なんという記憶力! 記憶力だけではない、問題解決能力が高い人なのだろうと思う。
その方のIQは120台だった。発達障害の凸凹があるなかでの数値がこれなら、突出した能力があってもおかしくない。
(私は「IQ信者」ではないけれど、一応の目安にはなると思う)
しかしこうした能力が高くないと、いつも同じことを繰り返し、何の進展もないまま時間が過ぎていくのかもしれない。
そして割合的には、そういう人の方が多いのではないだろうか。
知能は万人に平等に与えられているわけではない。しかし何をするにも土台となる知能が必要になる。
たとえ経験からの学びであっても、学んだものを入れる器が小さいと、得るものも少なくなってしまう。
残酷だが、これが現実なんだ。
社会適合が上手くいかない原因を突き止めるには能力が必要だけど、そこが低いとただ悩むだけで終わってしまう。
いや、悩めるのならまだいい。そもそも自分の「不適合」を言葉で表すことができなければ、自分の現状を認識することさえできないのだ。
うちの母親の場合もまさにこの段階だと思う。周りは大変な思いをしているが、自分だけが認識できていない。
母の能力が高いとは到底思えない。だから「周りとの軋轢を減らす」ことへの解決は難しい。
唯一の方法は、母になるだけストレスをかけないようにするしかないが、それも難しい話だ。
解決が難しい問題を考え続けるのはうんざりする。徒労感に襲われる。
もうやめようと思うけど、どうしてもやめられない私が悪いのか…