何かが未搭載
こうやって書いていると、母もかわいそうな人だと思う。
人が普通にしていることができない。
何度言われてもできない。
できないどころか、周りの些細な言動に反応して攻撃的になってしまい、周りの人を深く傷つけてしまう。
そうしたものすべてをマルっと解決できるような何かが、生まれつき搭載されていないんだろう。そもそもエンジンがないんだから、できるわけがないのだ。
しかし常に人から「何故できないんだ」と言われる。
しかもそれは「いつ、何を、どうする」と、はっきり言葉で教えられるものではないので、お互いに困惑するだけなんだろう。
共生への道は茨の道
こうして考えてみると、脳機能障害のある人と共に生活をし、あるいは共に働くことは非常に難しいと感じる。
インクルーシブ、共生。
言葉で言うのは簡単なことだが、実際に行っていくのは専門家ではない、普通の一般の個人である。
障害をもっている人が、訓練の末にどこまで歩み寄ることができるのか、定型発達と言われる個人が、どこまで承知し我慢し受け入れることができるか。
障害の特性だと承知していても、無意識の暴言や嫌味、突発的な癇癪を聞き流し、「何故できない、何故してくれない」という思いを封印するのは、大変な努力が必要であろうと思う。
「共生」は誰にでも等しくできることではない。
人選を考えずに行えば、高い確率で軋轢が生じると思う。
美しい理想は、互いに病むだけの結果に終わるかもしれない。
800万通りの生きづらさ
平成28年文科省調査によると、医師から発達障害と診断された人は48万1千人。「診断された人」だから、実際にはもっと多いと思う。
全国公立小中学校での調査によると、発達障害の可能性があるとされる児童生徒の割合は6.3~6.5%。これを単純に日本の人口に当てはめてみると、約800万人となる。
この800万人の人をどうするのか?
自ら命を絶つまでほおっておくのか。
「毒親」となり、子どもを痛めつけてしまうのをただ見ているのか。
様々な対策や支援はなされていて、昔に比べれば雲泥の差に進展していると思うが、上手く機能しているのかどうかは、まだまだこれからなんだろうと思う。
様々な理由で働くことが難しい人、生活が上手くいかない人が責められることなく、自由にその人のまま生きていくにはどうしたらいいだろうか?
解決への道は茨の道
自分と母との関係を振り返ってみると、それがいかに難しく困難なことかがわかる。
でもそのために命を落とす若者の存在を知ると、心の底から絶望感でいっぱいになるのだ。
この気持ちはどちらも本当で、嘘ではない。
それだけ複雑な問題という事なんだ。