毒親育ちの毒親考察

私の母は何かがおかしい

『IQが20違うと会話が通じない』という電子書籍とSF小説『フラットランド』

 

前書き

 

『フラットランド(エドウィンアボットアボット著)』といううSF小説を読んだ(まだ途中ですが)。話の中で2次元の世界に住む住人の様子が詳しく書かれていて、大変興味深い内容だ。

 

読んでいてふと、「これって知能の問題と同じなんではないか?」と思ったので、そのことについて少し書いてみようと思う。

 

高次元の世界は認識できない

 

私たちが存在しているのは3次元の世界だ。

縦・横・高さがある立体の世界。

対して2次元の世界とは、縦・横だけの面の世界だ。

 

もし2次元に存在する何者かが3次元の世界を覗いたとする。

すると彼らが目にするのは、私たちが見ている風景とは全く違うものになる。

 

地平線から登る太陽は、最初は「点」として現れ、やがて「線」となり、再び「点」へと移り、そして視界から消える。

 

2次元の彼らには「立体」の概念がなく、認識もできないので、そのように見えるそうだ。

 

これは我々でも同じで、もし4次元の世界を覗くことができたとしても、物体の一部分が欠けていたり、現れたり消えたりと、奇妙な形や動きをしているように見えるらしい。

それは、我々の脳は「4次元」というものを認識できないからだ。

 

低次元の住人は、高次元の世界をすべて丸ごと認識することはできない。

高次元の住人は、低次元の世界に生きる者の考えや心情を理解することができない。

それは互いに見ているものが、あまりにも違いすぎるからだ

 

IQ○○の世界

 

数年前だったか、ネット上で「IQが20違うと会話が通じない(著者・安間伸)」という電子書籍が話題になっていた。

 

書評や感想には賛否両論あったが、あれって「次元の話」と似てるよね、と思う。

 

世の中には「IQ○○の世界」というものがなんとなく存在していて、友人関係、学校や職場、住環境、日本は欧米ほどはっきりしているわけではないが、それでも何となく「それぞれの場」と言うものがあると思う。

 

そして各々の世界の中では、互いに違和感なく暮らしている(全くないわけではないが)。

 

ところが異次元の住人が混ざり合うと、ちょっと困ったことが起きる。

 

低IQ者は高IQ者の話の内容や行動の全体像を把握することができず、高IQ者は低IQ者の「なぜそんなことをするのか」という、心情や理由、原因がわからない。

 

互いに理解不足になる可能性が高くなると思うんだ。

 

断っておくが、これはどちらが上とか下とか、そういう事を言っているのではない。IQは相対的な数値であって、単に「違う」と言うだけのことだ。

 

物事の捉え方が違う

 

「IQが20違うと」の部分はどうなのかわからないけれど、知能が大きく違うと互いに話は通じない、というのは、ある程度は本当の事なのではないかと思う。

 

通じないというか、言ってることの意味や、行動の真意を読み違う事によって誤解が生じやすく、気持ちの齟齬が起こる可能性が高くなってしまうのではないだろうか。

 

結局、知能の違いとは「物事の捉え方の違い」なんだと思う。

 

同じものを見ていても脳は違うものを見てる。

同じことをやっていても、到着地点が全然違う場所だったりする。

 

これも「次元の話」と似ている。

 

だから一緒にいると、どうしても価値観や行動様式の違いが目立ってしまう。

 

要らぬストレスを抱えないためにも、別々に暮らしてる方が良いし、現実にはそうなっている。

 

色んな知能の人間が一堂に会するのは小学校までだろう。

 

中学から徐々に別れだし、高校からはほぼ別になる。

何かのハプニングがない限り、そのまま各人の世界で暮らすことになるんだろう。

 

理想ではなく現実的に

 

「インクルーシブ」という言葉をよく耳にするようになった。

 

みんながそれぞれの特徴を鑑みて、協力し合うのは大切なことだ。

何人も決して排除されるべきではない。

 

しかし「理解し合える」とか「分かり合える」などと、理想を語らない方が良い。

分かり合えない、理解はできないものと認めた上で、では互いに何ができるかを考えたほうが建設的だ。

 

理想を語るのは気持ちは良いが、たいていの場合、感情的なものはあまり役には立たない。

たとえグロテスクでも、現実的でシステマチックなものが人の助けになるような気がする。

 

母と私

 

母は知能が高い人ではなかった。

実際に測定した訳ではないが、長年付き合っている中で、感覚的にそう思うのだ。

 

こういう話をすると、「お前は自分が知能が高いと思っているのか」、あるいは「知能を話題にするなんて失礼ではないか」と非難されるかもしれないが、決してそういう事を言いたいのではないのだ。

 

知能が大きく違う人との会話は、説明しがたい大変さがあるのだ。

これは経験した人にしか分からない事ではないかと思う。

 

お互いにストレスを感じることなく会話するには、どうすればよかったのだろう?

 

SNS上には技術的なことは沢山あがっているが、どれも職場や学校などの公的な人間関係が主であり、近しい間柄の日常会話には使えないものが多い。

 

まぁそれも一理ある。

公的な人間関係は逃れられないが、近しい間柄なら、会話をしなければいいだけの事だ。

 

つまりは、解決策は”それ”ってことなんだろう。

極力無駄な会話を避ける。

それしかなかったのかもしれないな。

 

SF小説『フラットランド』についてのリンク

ja.wikipedia.org