この話、前にもしたかもしれないけど…繰り返しになるが、まぁいいか。
私は随分前から母親の発達障害を疑っているが、彼女が発達障害であろうと人格障害であろうと、それ以上に問題なのは「知能」だと思うのだ。
知能が高い人は自分の問題点や困っている点を明らかにすることができ、少しでも生きやすくする為の対策を打つことができるようである。
以前メンクリの先生も言っていた。「能力の高い人は対策ができるんですよねぇ…」と。
その通りだと思う。
母はお世辞にも知能が高いとは言えない人だった。
母の兄弟姉妹も軒並み知能が低そうだ。
全員学校の勉強ができないし低学歴。
学校の勉強=頭が良いとも限らないが、その指標にはなるとは思う。
職を転々としていたり、生活態度に問題があったり、ギャンブル依存傾向のある人もいる。「考える」ことが嫌いで「その時楽しければいいや」という人達。
ただ当時は社会全体の経済状況が良かったので、そんな彼らでも人並みの生活ができたのだと思う。今だったら良くて非正規、悪ければ日雇い&ネカフェ生活になっていたかもしれない。
だから母がよく口にしていた「私たちはまともな生活している!」という自慢話は、「それは時代が良かったからだよね」としか思わないのだ。
彼らに特徴的なのは、「問題を明らかにして解決しよう!」という気がないことだ。
「なんか知らんけど」
母が良く言っていた言葉。
すべてのことに付いて「なんかよく知らんけど、よく分からんけど」なんだ。きちんと『言語化』することができないんだな。
言語化できないから問題をはっきり認知することもできず、自分が何に困っているかもわからない。だからキーキーとわめくばかりで、いつまでたっても進展しないし解決することもない。
たぶんそれは障害の有無よりも、「知能」が関係しているのではないかと思うんだ。言語化が苦手なのも、考えることができないのも、対策が打てないことも、知能が低いからではないかと思う。
母と話をしていた時に感じた「何か通じてない感じ」は、彼女の理解力の低さに原因があったのではないだろうか(私の話し方に問題があったのかもしれないが…)。
決して難しい話をしているわけではない。
世間話の延長線のような内容で、人間関係や子育てや、そういった身近な話題だ。
でも母は「起こった事実」しか見えない人なので、「そうなった原因は…」的な話はほとんどできない。「あんなことがあった、こんなことがあった。うれしかった、腹が立った。」それで終わってしまう。
自分が話せないことは聞いてもわからないんだろう。
それでも穏やかな性格だったらいいのだ。
知能が低かろうが高かろうが、人として「まとも」ならいい。
ところが母のように負けん気が強く気が荒い性格の人間は、自分の知能の低さをバカにされまいと、必死になって攻撃してくるからたまらない。
この辺りは障害が原因なのかもしれないな。
感情のコントロールが効かないこと、一旦切れると歯止めが利かないことが原因なのかもと思う。
とにかく、
障害の有無以上に「知能の問題」は根が深く、何かを解決するには「知能」は不可欠で、そこが劣っていると「歩み寄り」は不可能に近いのではないかと思うのである。