毒親育ちの毒親考察

私の母は何かがおかしい

毒母の「子どもへの愛」も、やっぱり「自分中心」だったような気がする

「毒母に子供への愛はあったと思うか?」と聞かれたなら「あったと思う」と答えるが、そう答えた後に複雑な気分になる。

 

母には母なりの愛はあったと思うが、私はそれとは別の愛を欲していたので、「母には愛があった、だから感謝している」というような気分にはなれないのだ。

 

母の愛には「情緒的な何か」が欠落していたように感じるのだ。

 

母の愛情表現は非常に即物的というか、お金を使って何かしてやることや(習い事とか物を買うとか)、食事洗濯などの身の回りの世話をするとか、何かそういう事だけだった。

 

私は「情緒的な愛」が最も大事だと思っているので、そこですれ違いが起こるのだ。

 

私が思う「情緒的な愛」とは、子どもが泣いていたら「どうしたの?」と言って抱きしめてやるとか、上手にできたら「すごいね」と言って頭を撫でるとか、絵本を読むときは膝の上に乗せてやるとか、何かそういう、小さくてかわいいものに接した時に自然としてしまうような行為を言う。

 

しかし母には、そういった情緒的な愛情表現は全くなかった。

 

私は母に、頭を撫でられたことも、膝に乗せてもらったことも、抱きしめられたことも、ただの一度も無い。

 

むしろ子どもがそんなことをしようものなら、「暑苦しい!」と言って、払いのけられたくらいだ。

 

おまけに言っておくと、褒められた記憶も励まされた記憶も無い。

 

私が大人になってからは、それらしい言葉を聞いたこともあるが、子供時代、特に小学生以下の時には、聞いた記憶が全くない。

 

それは下の兄弟に対してもそうだったので、私の記憶は正しいと思っている。

 

ところが母は、「私は子どもを可愛がった!」と何度も言っていた。

 

母の自慢は、

子どもの体に”あせも”を作ったことがない、

日帰りできる遊園地には全部連れて行った、

離乳食をちゃんと作った、

だった。

 

私が贅沢なんだろうか?

こういう事って、何か「愛情」とは別なような気がしてならないんだ。

 

自分(母親)が「こうするぞ!」と目標を決めて、それを達成できたと言って喜んでいるだけっていう気がするんだ。

 

あせもを作らせないぞ!

離乳食を手作りするぞ!

遊園地に連れて行くぞ!

 

例えばこれが、

丈夫な体に育てるぞ!

健康な食生活をさせるぞ!

色んな体験をさせるぞ!

だったらまだいいと思うんだ。

「愛情」と言えなくもないし、何より子供の人生の役に立つ。

 

でもそうじゃない。そういう総合的な事ではないんだ。

非常に局地的というか、「健康な体」ではなく「あせも」だけなんだ。

関心があるのは離乳食や遊園地だけであって、その他の事はどうでもいいみたいなんだ。

 

その証拠に、せきが止まらなくても病院に連れて行かないし、歯が悪くても歯医者に連れて行かない。夜中に甘いお菓子を食べさせたり、親と一緒に夜更かしさせたり。

 

母はこういう人だったなぁ…と思い出すよ。

何だか非常に「局地的」な関心しかない人だった。

 

何かのTV番組で言ってたか、自分の体験からだったのか知らないけど、すぐに他人に感化されて必要以上にこだわる。

 

そのエビデンスも何もない変なこだわりに振り回される家族は、いい迷惑だったよなぁ…

 

話は反れたが、

母が「私は可愛がった!」といくら言ったところで、子どもである私がその愛を全く実感していないのだから、「母の一方通行の愛だった」と言ってもいいのではないだろうか?

 

子どもよりも「自分」に視線が向いている人なので、愛情表現も自己中心的なんだろうと思う。子どもがどう思っていようと、そこには関心が無かったんだろうね。