毒親育ちの毒親考察

私の母は何かがおかしい

母は娘である私の事をどう思っていたのか?という問題について深堀り

ある方から質問を頂いた。

「あなたのお母さんはあなたの事をどう思っていたと思いますか?」

 

さて、どう思っていたんだろうか?

 

面白い題材なので、考えたことを書いてみようと思う。

 

 

発言や行動に目的が無い

 

母は私(子ども)の事をどう思っていたのか?について、

結論を先に言ってしまえば、「何も考えていない」だと思っている。

 

そもそも母は、何か考えて行動したり発言したりできない人だったからだ。

だから自分の子どもに対しても同じだったろうと思うのである。

 

「何か」とは、労わりとか優しさもそうだが、逆に、陥れようとか利用しよう、と言う負の事も含まれる。

 

良くも悪くも「何か」を目的として発言したり行動したりすることができない、と言う意味である。

 

子どもに対応することができない

 

この母の特性は、子どもを相手にした時、顕著に表れる。

「子ども」とは、自分の子どももそうだし、それ以外のすべての子どもに対してもだ。

 

子どもに対応するのは、思う以上に難しい。

 

自分が上に立って、配慮したり手加減したり、とにかく色々と考えて動かないといけない。言語化が未熟な子どもの気持ちも察しなくてはならない

 

逆に子どもは「子ども」だから、こちらに配慮はしてくれない。

時には腹の立つ事やイラっとする事もあるけれど、そこはグッと堪えて冷静に対処しなくてはならない。

 

つまり、子どもと同じ土俵に乗っては上手くいかないのだ。

 

母はそういった「大人の対応」が、一切できない人だった。

 

それは大人に対しても同じだった。

 

相手の気持ちや立場が理解できず、先の行動も予測できず、気も利かなければ機転もきかない。人と人との関係性もイマイチわかっていなかったし社交辞令もダメ。

 

思ったことをただ言ってるだけなので、今日言ったことと明日言う事が真逆だったりする(例:勉強はできた方が良い⇒勉強なんてできなくても困らん)

 

その上アンガーコントロールができないので、わめきたい時にわめく。

 

こんな人なので、大人でさえ相手を怒らせたり辟易させたり、誤解を生んだりする事はしばしばだった。

いわんや子どもをや、である。

 

態度が変えられない

 

母としては、何も考えず自分がしたいように行動しているだけなのだ。

相手が大人であろうと、子どもであろうと、老人であろうと態度は変わらない。

 

それは相手の状況によっても変らない。

病人であろうと、心が傷ついている人であろうとお構いなし。

 

わざとしているのではなく、そうとしかできないのだと思う。

 

でもその行動や言動を、

大人は「常識が無い人」「わがまま」「自己中心」と感じ、

子どもは「いじわるされている」「嫌われている」「否定されている」と感じるのだ

 

実子の被害は甚大

 

大人なら「仕方のない人」とあきらめ距離を取ったりできるが、子どもはもろに被害を受ける。

 

それが実子なら、被害は甚大である。

 

母親は何も考えてくれないので、こちらが対応できる年齢になるまで「嫌われている」「いじわるされている」と日々感じながら生活することになるのだ。

 

これはなかなかにキツイ。

 

親子逆転と発達障害

 

母親の「変」に対応できる年齢(大学生になった頃かなぁ…?)になっても、私が「母の母親」のような「親子逆転現象」は、気持ちのいいものではなかった。

 

母の攻撃を受けないように、言葉を選び、顔色を窺い、気を張った生活だったように思う(それでも攻撃されたが)。

 

何度、本当に親子が逆だったらよかったのに、と思ったことか。

 

「この人はこういう人なんだな」と思うようになったのはつい最近のことで、発達障害というものを知ってからだった。

 

幼い頃から「この人は何か変だ。気がおかしいのかもしれない」と思い続けていたが、ひょっとして発達障害なのかも?と思ってからは、謎が解けていくような気がした。

 

それで帳消しになる事は絶対にないが、謎が解けるだけでも幾分すっきりする。

 

今思えば、小・中学生の頃の不眠と激しい頭痛は、カサンドラ症候群のストレスだったのかもしれないな、なんて思う。

 

まとめ

 

母は私の事をどう思っていたのかについては、「何も考えていない」が正解だと思うこと。

 

何も考えていないから、母の行動には一貫性がなく気まぐれで無自覚だったこと。

 

そのために私は「母親は私を嫌っている」「自分はダメな人間なんだ」と思っていたこと。その気持ちは今でも残っていること。

 

私の事を心配したり、助言しようとしたり、手助けしようとしたりすることもあったが、気まぐれな感じが拭えなかった。

そういう「思い出したかのような気遣い」よりも、「無自覚の攻撃」をやめてくれと思っていた。

 

否定・暴言という負の行為による被害があまりに甚大だったので、たとえ何もしてくれなくても、攻撃が無いだけで私は幸福だったように思う。

 

「何も考えてない」実例2選

 

①「つまらん曲」発言

 

ピアノの発表会の後(中学生の頃)、

「つまらん曲やったな、なんであんな曲選んだんや!」

と怒鳴られる(慰労の言葉は一切なし)。

 

⇒深い意味も無くただそう思ったから言っただけか、口の悪い毒友(毒友の子どもも同じ教室)に何か言われて、イライラ解消のために言っただけ。

 

本人に私を攻撃している自覚はない(翌日には忘れているので)

毎日練習してるんだから曲は知ってるはずなんだが、そこまで考えられない。

 

②「大学なんてやめてしまえ!」発言

 

家族でTVを見ている時、母と兄弟が話し始めた。

2人の声が大きくてTVの音が聞こえなかったので「ちょっと声を落としてくれる?」と<普通に>言ったところ、母が突然きれる。

 

「なにを偉そうに! 大学に行ってると思って偉そうにするな! 大学なんてやめてしまえ!」と怒鳴った。

 

⇒話のこしを折られたと思ってイラっとした。

イライラを発散させているだけなので私を攻撃した自覚なし(翌日には忘れているので)

 

母は学歴コンプが激しいので、こういう言い方をする。

話の辻褄は全く合ってないが、そこまで考えられない。

 

 

以上、実例2選でした。

(改めて文字にすると…ヒドイなぁ…)