*性被害に関する話が出ます。
ご留意ください。
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最近亡くなった母の事を思い出して悶々とすることが多い(良い意味ではない)。
亡くなった日が近づいてくるからだろうか。
心に溜めると体に悪いので、思うままに吐き出そうと思う。
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私の母は、相手の立場になって考えられない、人の気持ちが分からない、つまり「心が無いに等しい人」だった。
そういう母は、時に信じられないような反応をすることがあった。
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私が20代の頃の話だが、当時近所に住んでいた私と歳の近い女の子が性被害に合うという事件があった。
加害者は複数人で、彼氏とのデート中に被害にあったそうだ。
事件後その女の子は精神を病み、一緒に被害に合った彼氏とは結婚間近だったそうだが、事件が元で別れることになったと聞いた。
余りに酷すぎて胸が悪くなる事件だ。
被害の詳細はとても辛いもので、私は話の途中で「もういい、それ以上聞きたくない」と何度も言ったのを覚えている。
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この話を私にしたのは母だった。
近所の友達から聞いて帰って、さっそく娘に話したというわけだ。
しかしその時の母の様子は、実に楽しそうだったのだ。
話の内容と「楽しそう」という母の様子があまりにちぐはぐで、その時の母の表情は今でも覚えている。
嬉々として事件の内容を話す母。
当然の如く「かわいそう」とか「辛い」などと言う言葉は皆無だった。
私が「辛すぎる」とか「もう聞きたくない」などと言うと、母は「きょと~ん」としていた。「なんで? なんでこんな面白い話を聞きたくないの?」と言いたげだった。
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世の中には、信じられないような理由で犯罪を犯す人がいる。
虐待や性犯罪にはその例が多いように思う。
実の娘をレイプし続けた男が、「娘を励ますつもりだった」と戯言を語っていたが、あれは本気でそう思っていたのかもしれない。
我が子に酷い虐待をしてしまう親が、「躾だった」と言い訳を言うのを聞くが、あれも当人は本気でそう思っているのかもしれない。
どちらも「相手の立場になって考える」という、人として当たり前の事が出来ないから起こる事件なのではないだろうか?
「相手の立場に立って考えられない」
「他人の気持ちが分からない」
文字にしてしまうと「大したことない」と思うかもしれないが、
間近に接していた者から言わせてもらうと、そういう人を見ていると恐くなる時があるのだ。
酷い状況を語っているのに、楽しそうにしている。
瀕している人、辛い状況にある人を見ても何も感じないどころか、追い打ちをかけるようなことを言ったりする(無自覚に)。
『他人の不幸は蜜の味』とはいうが、そういう人のそれは意味合いが違うように感じる。
「他人の不幸」の度合いがどんなに酷いものでも、対象になっているのが誰であっても、単なる「お話」として楽しんでしまうのではないだろうか。
「相手の立場になって考えること」
「人の気持ちがわかること」
それは「人」が人としてあるために最低限必要な能力であり、その能力こそが、人が「人間」である所以ではないかと思うのだ。
人間としての基本的な情緒が欠落しているのは想像する以上に恐ろしい事だと思うのだが、私にもその障害傾向があるので、時々物凄く怖くなる。
自分は大丈夫だろうか? 人としての情緒を保てているだろうかと不安になり、自分が信用できなくなる。
メンクリの先生には
「不安になるところが、お母さんとは違う所ですよね」と慰めてもらった。
そうだ、私は母とは違う。
あの母とは違うのだと、そう唱える毎日である。