毒親育ちの毒親考察

私の母は何かがおかしい

自己都合でキレる人とは、どんな理由があっても付き合えない

障害だろうが性格だろうが、

自分の気分次第で突然キレる人とは、やっぱり普通には付き合っていけない。

 

母は「聞き流したらいい」とか「聞かんかったらいい」と自分に都合の良いことを言うが、そんなことできるはずがない。

 

それはつまり「感情をなくせ」と言っている事と同じだからだ。

 

そのくせ母は「私は、わぁ~っとまくしたてられると嫌なんだ」と言う。

 

自分はするが、されると嫌だと言う。

 

母はよくこういう事を言う。

不思議でならないが、母とはそういう人だ。

そしてそのことを指摘するときれる。

 

「されて嫌なことはしない」

これは幼稚園で習う事だけど、母は一生できそうにない。

 

とにかく、

相手が幼い子供であろうと、死期を悟った病人であろうと全くお構いなしに、自分の気分次第で切れてわめくような人とは、普通には付き合っていけない。

 

そこにどんな理由があろうとも、絶対にムリだ。

 

自然の摂理と種の保存についての独り言

 

 

天才は稀な存在

 

発達障害と天才とを関連付ける話をよく聞く。

 

しかし思うに、それは非常に稀な例であって、発達障害「高IQ」「運」「時代の要請」が偶然にも重なった時にしか現れないと思っている。

 

特に「時代の要請」の影響は大きい。

 

いくらたぐいまれな才能があろうとも、その才能の種類や方向性が、その人が生きる時代に必要とされているものでなかったら、それは「ただの変わった人」で終わってしまう可能性が高い。

 

「天才」と呼ばれるような人物になったとしても「幸せ」とは別問題であるが、それでも時代に名も残すことで、自分を納得させられるかもしれない。

 

対してその他大勢の発達障害者は「ただただ人生ハードモード」という場合が多いのではないだろうか。

 

偶然の産物である「天才」を生むための予備軍(予備軍でもないな)でしかないのかと思うと、腹立たしいと言うか、虚しいと言うか…なんとも言えない気持ちになる。

 

自然の仕業

 

「自然」と言うものは、徹底して「個人の幸福」には関心がない。「人」という「種の存続」にしか興味がないのだ。

 

種を存続させるためには「多様性」が必要となる。

この世の中がどう変わろうとも、いずれかの種類の人間が生き残ればよい。

 

そのために自然は、様々な種類の人を造る。その一つが「発達障害」なんだろうと思う。

 

「多数派」は強い

 

だから「普通」な人達が、特に優秀で立派と言うわけではない。

数が多いってだけなんだ。

 

そもそも人間なんて、そんなに大して必要ない人がほとんどなんだよ。

 

たいして努力もしないし我慢もしない。

それでやっていけるように、社会の側を「普通の人々」に合わせてある。

 

いつの時代も「多数派」が普通に生きていけるように、社会システムは構築される。

 

そりゃぁ当たり前だ。

多数派の人が普通に生きていけない世の中なんて、社会として成立しないんだから仕方がない。

 

要するに、人間の人格とか能力とかそういう事には関係なく、生きやすいかどうかなんて、多数派か少数派化の違いだけなんだろう。

 

誰が多数派になるか

 

でも自然の摂理ってことから考えると、今の「普通」な人たちが多数派を占めているってことは、やっぱりそれが最も人の存続の可能性が高くなるからなんだろうな。

 

という事は、「宇宙に行く」とか「”ケンシロウ”の時代になる」とか、何かとんでもない大転換が起きない限り、「普通」の範疇とされない人々が「多数派」になることはないのかもしれない。

 

この「地球」という土地の上で、「人」という種族として存在するためには、その時代が平穏であればあるほど、発達障害者は大変な人生を送ることになるんだろうな…

 

なんだか暗く救いのない話になってしまった…

若いライダーの死が堪えてるんだ…

 

 

 

毒親は年老いても尚、自分勝手

 

「そんなことしている間に、私(毒母)がどうにかなったらどうするん?」

 

私が引っ越すとか、

旅行に行くとか、

母親のそばを離れるようなことを言うと、こんなことを言う。

 

脅しているのか? と思ってしまう。

 

先日、1週間ほど家族で旅行に行った時のことだ。

 

「どこかに行ってたんか!?」と訊かれたので事情を話すと、「旅行に行くときは連絡していって!」と。

 

以前は1週間以上の旅行に行くときは、必ず母親に行き先を伝えていた。

旅行中に私たち家族に何かあっ時、行き先もわからなければ困るだろうと思ってそうしていたのだ。

 

ところが数年前に、何がどう気に入らなかったのか「いちいち連絡してこんでもいいわ!」と切れられたことがあった。

 

それ以来、どれだけ長期になっても一切連絡しないことにした。

 

「前は連絡してたでしょ? あなたがしなくていいと言ったんでしょう?」

 

「そんなこと言った覚えはない、それにそう言ったとしても連絡するのが常識や!」

 

「常識」という言葉を聞いて吹きそうになった。

あなたが「常識」を語りますか?

 

うちの毒親はその時の気分でものを言うので、つじつまが合わないことだらけだ。いちいち取り合っていては埒が明かないので、これからも連絡するつもりはない。

 

歳をとって、おまけに病気になって心細くなったのだろう。

普通の親ならもっと気にかけて傍にいるかもしれない。

 

しかしうちの毒親はこれまで自分優先で、子どもの都合など二の次だった。なぜこちらだけが気を遣わなくてはならないのか。

 

これからも自分や家族の都合を優先する。

その間にどうにかなったなら、それでもいいと思っている。

 

これ以上、毒母に振り回されるのはご免だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

子どもが独り立ちしたら、家族解散ってどう

 

子どもが働くようになったら、結婚したらでもいいよ、とにかく子供が一人で生きていけるようになったら家族を解散するってどうなんだろうか。

 

鮭の親のように、

子どもを育てたら(鮭は「産んだら」だけど)親はこの世から引退する。

でもそんなに簡単に三途の川は超えられないから、

引退の代わりに関係を断つってどう。

 

親は子育て後の余生を、身銭と税金でどうにかする。

子どもは「いなかったもの」として過ごす。

それでいいじゃないかと思う。

 

不謹慎かもしれないけど、

今は人間、長生きし過ぎなんだよ。

90も100もって、

そりゃ誰だって生きていたいって思うけど、

あまりにも長いと子どもが大変なんだよ。

 

親が90になったら、子供だって年寄りだ。

体力衰えてしんどいのに、いつまでも親の面倒を見ないといけないって、いったいいつになったら親から解放されるんだよ! と言いたい。

介護とかにならなくても、気になるだけでしんどいんだよ。

 

これって親が「毒親」だから思うのか?

普通の親だったら「いつまでも長生きしてね」と本気で思うんだろうか?

 

私はね、自分のことと、自分の家族の事だけ考えて生きていきたいんだ。

なのに親はいつもいつも、私の前にでん!と横たわっている。

 

あの母が、いつまでもどこまでも着いてくる。

そんな憂鬱な気持ちが、ずっとずっとずっとずっー---と、私の心にある。

 

こんな思いを、我が子にはさせたくないよ。

 

だからやっぱり人間も「鮭の親方式」がいい。

鮭の親になって、子どもを解放してあげたい。

 

 

 

毒親ってみんな、なんとなく似ている

 

ツイッターやブログなど、

他の人が書く「毒親」を読んでいると、みんなどことなく似ている。

 

まず何と言ってもこれ、

「身勝手で自己中心的」

 

毒親と言えばこれだよね。

すべての害悪はここから始まっていると言っていい。

 

そして次に多いのがこれ、

「愛情表現がない」

 

子どもを褒めるとか、やさしい言葉をかけるとか、スキンシップがあるとか、そういう「子供への愛情表現」が非常に乏しい

「ない」と言いっていいほど、ないんだよね。

 

そしてこれも多いよね、

「気づかない・わからない」

 

子どもの気持ちや様子の変化に何も気がつかない。

そもそもわからない。

 

気が付かないから自己中心的な行動をとるのか、自己中心的だから気が付かないのかわからないけど…これは鶏か卵か問題だろうか。

 

結果的に過干渉になるかネグレクトになるかは、毒親の特性によるんだろうね。

 

様々な「毒」は、これらの事から派生しているように思う。

 

毒親を簡単に表現するなら、

「周りが全く見えず、自分は正しいと思い込んでいる人」だと思う。

 

視野にあるのは「自分」だけ。

「自分」と言う囲いから、外の世界へ一歩も出ていけない。

 

自分の世界に閉じこもっているから、その中心にいる「自分」は正しいに決まっている。

なんの疑いもなくそう思っている人。

 

書いていて思う、大変な人だなぁ…

 

 

 

人として壊れているということ

 

 

母は人の不幸話が大好きだ。

「人の不幸は蜜の味」と言うから、誰だってその傾向はあると思う。

 

しかし母のそれはちょっと違う。

 

自分が安心したいのもあるだろうけど、

相手の気持ちに思いが至らなくて、そうなっているような気もする。

しかも性格が悪いので、余計に拍車がかかるんだ。

 

前にも書いた「コロナに罹った孫がおじいちゃんにうつしてしまって、おじいちゃんが亡くなる」と言う話。

 

孫の気持ちを考えると居たたまれなくなる。

 

ところがうちの毒母はそれをさも楽し気に、「面白いネタを見つけた!」みたいに話すんだ。

 

この話だけではなく、人の病気、離婚、事業の失敗などなど、人の不幸は片っ端から「面白いネタ」にしてしまう。

 

そりゃあ誰でも人の失敗話はするし、「大変だろうねぇ」と言いつつも「自分じゃなくてよかった」って思うこともあるよ。

 

でもねぇ、楽しそうには話さないよね。

 

そこには一応罪悪感があったり、その人の後先のことを考えると「気の毒だなぁ」と思う気持ちがあるからだよ。

 

でも母にとって人の不幸は、100%「面白いネタ」でしかない。

罪悪感なんて、たぶんない。

 

人の気持ちがわからないって、どんな障害や理由があろうとも、やっぱり人として壊れているとしか思えない。

 

申し訳ないけど、そうとしか思えないんだ。

 

だって人って、互いに気持ちを共有したり、共感したりして生きているんじゃないの?

 

100%分かり合えることは決してない。

でも何を悲しいと思うか、何をうれしいと思うか、そういう共通の感情がないと社会は成り立たないと思うんだよ。

 

「人の気持ちを想像してみる」

それって人が持つ「社会性」の、最も大切な機能だと思うんだ。

 

他の何ができなくても、この機能だけは欠落しちゃだめだ。

 

人の不幸を笑いながら楽しそうに話す。

異常と言うか…それはもはや狂気だよ。

 

母を見ていると、

「この人は必要となれば、平気で人を○○すんじゃないか?」と思えてくる。

〇〇すまでいかなくても、人を虐めたり陥れたり、罪悪感なくするんじゃないか?

 

実際、厭なことをされたと感じた時の報復はすさまじい。

普通の主婦が発すると思えないような言葉(まるでヤ〇ザ)で威嚇をするし、腹いせ行動もすごい。しかもそれを嬉々としてやる。

 

唯一の救いは、頭が良くないことだ。

母は頭が良くないので、やることが幼稚でわかりやすい。

 

これで頭が良かったら、本物の悪魔だよ。

 

 

 

毒親って、無意識に子供を否定するよね

 

 

子どもを否定する母

 

これまでにも何度も書いているが(最近こればっかりだ…)、毒親に対して最も恨みに思っているのは「否定され続けたこと」だ。

 

自分を擁護するために、娘を否定し続けた毒母。

 

たぶん本人に「否定した」というはっきりとした自覚はないと思う。

しかし事実として、私は否定され続けたと感じている。

 

私と母は何もかもが正反対だった。

正反対の娘が、まるで自分を否定しているように感じたのだろうか?

 

「何故そんなことをするんだ!」

「そんな言い方はおかしい!」と幼いころから言われ続け、おまけに無自覚な嫌味の連発。

 

当然「こうしたらいいよ」というアドバイスは全くなし。

 

教育方針なんて微塵もない。

気に入らないことがあれば鬼の形相で否定しておしまいだ。

自分の気分次第で怒り出したり優しくしたり、情緒不安定もいいとこだ。

だから子供としては、何をどうしていいか分からずにただオロオロするだけなんだよ。

 

しかもその「否定」が社会的には全く正しくなかったと分かった時の私の絶望感。

 

一体これまでの悩みは何だったのかと、悔しさと虚しさと心が壊れてしまいそうだった。

 

私の言ったこと、やったことは、社会の常識に照らし合わせれば間違いではなかった。

間違っていたのは母の方だった。

反社会的だったのは母の方だったのだ。

 

その悔しさが、私の恨みの根源になっている。

 

世の中を否定する母

 

私に対してだけではなく、

毒母は、世の中で「良い」とされている事のほどんどを否定して生きている。

 

社会や学校のルールに従うこと、

世の中の習慣を守ること、

勉強ができることや頭が良いこと、

真面目にコツコツ努力すること

計画性を持つこと

先のことを考えて行動すること

他人を労わること、優しいこと、

 

すべて自分ができないことばかりだ。

 

人は誰でも自分の自尊心を守るために、現実と自分の気持ちに折り合いを付けて生きている自分に都合の良いように「否定」して、現実を見ないようにすることもある。

 

でもだからと言って、できている人を否定してもいいという事にはならない。

 

その人が自分よりも「ある部分では優秀なこと」を認めないと、おかしなことになっていくんだよ。

 

母はそれができなかった。

 

もう何度も書いているが、

学校で教えられる「世の中の常識」「世の中の価値観」と母のそれとがあまりに違うため、私はいつも混乱していた。

 

学校で教えられたことを母に話すと、

「その通りにせんでいい」「学校の先生の言うことなんて聞かんでいい」と言う。

鼻で笑うこともあった。

 

私は家では母の考え通り、学校では学校の通りと、

長い間、二重の価値観で生活をしていた。

 

親子の特質が違う悲劇

 

もし私が母と同じような特質を持った人間だったら、母は私にとって「唯一の理解者」になっていたかもしれない。

 

母は人を「導く」ことはできないので、親子で奈落の底に落ちたかもしれないけど、少なくとも私と母の関係よりはましだっただろう。

 

でも現実はその真逆。

 

母の反社会的な考えが大っ嫌いだったが、母に気に入られるためには「そうだね、その通りかもね」と言うしかなかった。

 

私は母からと、自分自身からと、二重に否定されていたんだな。

 

自分に嘘をつき続けると、段々本当の自分がわからなくなっていく。

そして悲しいことに、「嘘の自分」に染まっていくんだ。

 

私は40歳くらいまでの自分が大っ嫌いだ。

それは、母の呪縛のなかで生まれた「嘘に染まった自分」だったからだ。

 

嘘の自分が自分の中に残ったまま子どもを育てたことを、今でも強く後悔している。

 

異常性の破壊力

 

どんな親子でも合わない部分はあると思う。

でもそれでも大きな問題にならずに済んでいるのは、親子ともに「異常性」がないからだと思う。

 

どちらかに何らかの「異常性」があると、毒親になり「異常に育てにくい子」になるんだと思う。

 

異常性の破壊力はすさまじい。

 

関わった人間を心底ヘトヘトにさせ、人格をゆがめてしまう魔の力がある。

 

関わらないのが一番の得策だが、

それが親や子になってしまった時は諦めるしかないのか。

 

世の中は不条理でいっぱいだな…