前回からの続き…
中学の3年間を思い出しても、楽しい思い出はひとつも見当たらない。
端から見ればどうだったかはわからないが、本人にしてみれば「とにかく、しんどかった…」という感覚が残っているだけである。
学校のシステムに馴染めない。女子ワールドも苦手だ。しかも所属グループとの相性も最悪だ。それでも懸命に「普通への擬態」に励んでいた。
ヘトヘト状態の私には、うっぷんをぶつける相手が必要だった。私はそれを「公立の学校」と定めたのである。
この大変さは、学校が「公立の学校」だからに違いない。このシステムやメンバーが悪いのは、それが「公立の学校」だからだ! という、今考えると、なんとも支離滅裂な他責少女になった。
と言うのも、小学生の頃、私は「中学受験」がしたかったのである。
当時(1970年代末~1980年代初頭)私が住んていた地方都市でも、ぼつぼつ私立中学に行く子が増えつつあった。
今ほど「モーレツ受験!」と言う感じではなく、日曜日に専門塾に通い、それで行ける学校に行ったらいいわ、という緩い感じだったと思う。
もちろん、うちの親はそんな時流に気づくこともなく、たとえ子どもが訴えたとしても「子どもの為に情報収集」なんてことはできるはずもない。
家でも「○○さんも、△△ちゃんも私立受けるらしいで」と話していたが、それで何か感じる取るような敏感(?)な母ではない。「へぇ~」と言ったら終わりである。
金銭的にどうとか言う前に、自分が関心の無いことは本当になんも関心がないんである。「ひょっとしてこの子は…」なんてことを思う人ではないので、言うだけ無駄なんである。
「なんではっきりと「私立に行きたい!」と言わなかったの?」と思うかもしれない。でも、当時の私は、というか今でも、私は自分の気持ちをはっきり伝えられない子どもだったのである。
小さい頃から「私がこう言えばああなる、ああなればそうなる」と先の先まで考えて、親が発狂しないように気を遣ってきたことから、自分の気持ちを押し殺す癖がついてしまっていたのかもしれない。
持って生まれた私の性格もあるかもだが、あの家には「素直に言えない何か」があったことは確かなんだ。
そんなふうに、親には何を言っても無駄であると日頃から諦めていた私は、「私も中学受験をしたい」とはどうしても言い出せなかった。
私が行きたかったのは「某国立中学」なんだが、今の人間関係を変えたかったのと、自分の力を試したかったのとの両方だった。
そこでどうしたかと言うと、私は本屋に行って「自由自在」の全教科を買い込み、独りで勉強を始めたのだった。
親に言わずにどうするつもりだったの?と思うが…小学6年生の私には、そんなことしか思いつかなかったのである。
まぁでもお察しの通り、中学受験の勉強を子供一人でするには無理がある。あまりに無謀である。
もし一人でできるなら、そりゃ天才でやんす。
数学オリンピックで金や銀を取るような異才には可能なようだけど、それでも情報収集は親がやる。
あまりに無謀な計画を立て、そして数か月で諦めた(飽きた)私は、結局親には何も言わぬまま、地元の公立中学に進むことになるのであった。
当時、私が通った地元中学は最悪な環境だった。
ちょうど「校内暴力」が流行っていた時代で、我が母校の窓ガラスは年中どこか1枚は破損している状態で、ある年などは、その冬の間、教室の廊下側の窓ガラス1枚がない、という悲惨なこともあった(寒かった…)。
学校にはヤンキーとその彼女である「姐さん」が君臨していて、登下校(なぜだか毎日学校に来る)の時には、下っ端のヤンキーがずらっと並んで「おっ$&!っす!」と挨拶するんである。
彼らは「スクールカースト」の場外にいて、彼らだけのワールドを形成し、その他の生徒とはほとんど関わりの無い状態だった。
しかしそれでも彼らの醸し出す「破壊力」絶大で、学校は「勉強する雰囲気」を完全に失っていた。
明るくて、人に”うける”ことが至上命題だった中学時代。学校だけじゃなく、1980年代は日本全体がそんな雰囲気だった。
「クラ~い」と言われるのが何よりも恥ずかしい時代。私は、その時代の雰囲気に、全く合わなかった。
そんな私は学生時代に密かに心に決めたことがある。
それは「将来、自分の子供は絶対に私立中学に入れるぞ!」というものである。
公立不信はずっと続いていて、まだ見ぬ「私立の学校」に理想を抱き、淡い恋心を寄せていた10代だった…
そして後年その恋心は実を結び、我が子は中学から私立に入れた。
まだ続きます…長いですなぁ