話題エントリーにこんな記事があった。
20代の夫婦が【子供なし+共働き」の生活を選択し、その選択に対して60代になった夫が感想を書いている。
彼の結論としては「子どもを持った方が良かった」と言うものだ。
理由としては、時間的金銭的余裕の享受はそれほどでもなかったということ、子供の成長に伴う人生の起伏がないこと、世間からの「なぜ子供を持たないのか」と言う質問に答える億劫さなどをあげている。
しかし思うに、これはまさに【隣の芝生】でろう。
私はもう一度人生をやり直すとしたなら、逆に子どものいない人生を選ぶだろうと思っている。
それは我が子がどうのこうのというのではなく、子育てと言うものが余りにも過酷だったからである。
子育てとは本来、試行錯誤と失敗の連続である。
素人の【ただの人】である者が、たまたま【人の子の親】となっただけであり、そんなに最初から上手くいくはずはないのである。
しかし世間の目は厳しく、少しでも不都合があると厳しい意見を浴びせられる。たとえ直接浴びせられなくとも、「きっとそうに違いない」と思うほど、世の中には冷たい情報が満ちている。
その結果、子育てとは楽しい事1、苦しい事9という苦行となってしまい、しかも絶対に途中で投げ出すことは許されない修行となるのである。
子供が中学受験をした時によく目にした言葉、
「成功は子どもの努力の賜物であり、失敗はすべて親の責任である」
子育てはまさにこれなんである。
【親ガチャ】と言う言葉と概念は世間に浸透したと思う。しかし【子供ガチャ】は絶対に認められない。しかし現実には親に当たり外れがあるように、子どもにも当たりはずれはあるのである。
素行が悪い子や育てにくい気質の子もいれば、能力の低い子もいる。
それは親の育て方や環境だけで変わるものではなく、生まれつきの資質が大きく作用する。これは子どもを一人でも育てたことがある人なら納得して頂けると思う。
たまたまそういった子供を授かった場合、親はその子が生きている限り、世間からの非難に耐えなければならない。犯罪者にでもなってしまえば尚更である。無職や引きこもりでもそうだろう。親は何をしていたのか、どういう育て方をしたのかと責められる。
確かに虐待や複雑な環境などを与えてしまって、そのために子どもの心理が歪んでしまうことも大いにあるだろう。しかし子供の性格に関係するのはそういった「負の作用」だけであって、「正の作用(親の良い対応や良い環境)」はそれほど関係はないという研究結果が出ているらしい。
それでも「子供ガチャ」という捉え方は許されないのである。
親は世間の厳しく冷たい視線の中で「絶対に失敗できない」という圧力に負けそうになりながら子供を育てる。
そんなことを続けている間に、自分の能力の至らなさに絶望し、申し訳けない気持ちで消えてしまいたくなり、子どもを産んだことを激しく後悔するのである。
「異次元の少子化対策」があれこれ言われているが、確かに「子供を産んで育てよう」と思うためには、先行きの不安を取り除かない限り無理だと思う。そこは経済とお金の問題である。
しかし「子供を産んで育てて良かった」と思うには、世間の【大らかな目】が必要だと思う。すべてを環境のせいにするのではなく、子どもの資質の問題を認めようよと、心からそう思うのである。
しかし、である。
こういうことを書いていて思うのは、「毒親問題」となんと相反することを言ってるのか…ということなんである。
親ガチャと子ガチャ、その問題を解決するには、もう生まれた子どもを全員里子にするしかないんじゃないか。産んだ親が子供を育てないという選択肢しかないのではないか?
ぁあああ…こんなことを考えて、今日も頭が痛くなるのである。