毒親育ちの毒親考察

私の母は何かがおかしい

障害よりも性格が悪すぎる

 

太っている人に「太ってますね」と言ってしまうのは障害なんだろう。

でも、太っている人に「ブタ」と言ってしまうのは障害ではなく、性格が悪いんだろう。

 

毒母はそんなふうに、性格がとてつもなく悪い。

 

乳歯の生え替わりの子どもに「歯抜けじいさん」と言ってからかう。

思春期のふっくらした体型の頃は「膨らしパン」と言われ続けた。

散髪に失敗した孫には「雷おやじみたいな変な髪型」と言って泣かす。

 

なぜワザワザ嫌味に色を付けるのか?

それが「おもしろい」と思ってるんだろうか…

 

毒母は、ただ心無いだけではない。

人の不幸や嫌なことを面白がるのだから始末に負えない。

 

母の知り合いの話だが、

コロナに罹った子供がその子の祖父にうつしてしまい、祖父が亡くなるということがあったそうだ。

 

びっくりするのは、毒母が実に楽しそうにそのことを話すことなんだ。

 

この話のどこがそんなに楽しいんだろうか?

 

「その子の心のケアが大事だよね」と言うと、毒母ははしゃぐのを止めた。

 

人の気持ちがわからないだけではないのだろう。

感情の感覚がおかしいんだ。

感情の感覚がおかしいことを「性格が悪い」と言うのだろう。

 

毒母の話を聞いていると、こちらの感覚がおかしくなりそうで怖い。

こんな心の無い人間がこの世にいるんだと、恐ろしくなる。

 

 

 

怒りの持って行き場がない(暴言多いです)

 

これまでにも何度も書いているが、

親が毒親で、その原因が脳機能障害にあった時、子どもは積もり積もった怒りや苦しさをどこに持っていったらいいのだろうか。

 

うちの毒親は診断を受けたわけではない。

だから「脳の機能障害」かどうかはわからない。

 

はっきりしていないのに「たぶんそうだろう」と思うのは間違っているのかもしれない。でもどう考えても、そうとしか思えないんだ。

 

きっと今後も診察を受けることはないだろうから、何がどうでああなのか、その原因は分からないままだと思う。

 

もし診断を受けて「そうだ」と決定したとする。

そうしたら毒親であることが毒親自身の責任ではなかったことになる。

 

そうなれば、ここでこんな毒を吐くこともできなくなる。

だってそれは「障害者に対する単なる悪口」になってしまうから。

毒母に対して怒ることもできない。

だって毒母の暴言は、本人の意思で言っているのではないから。

 

それってどういうこと?

あまりに酷い話じゃないか。

 

これまでの自分の苦しさは何だったのか、

「自分に非があるのではないか」と自分を責め続けたのは何だったのか。

 

障害が原因だからと言って、何をされても許せるものではない。

 

不快なものは不快だし、傷つくものは傷つく。

平気でいることはやっぱり無理だ。

 

「障害だとわかって、毒親を理解することができました」なんて記事を見ることがあるが、本当なんだろうかと思ってしまう。

 

毒親に痛めつけられたことで、失ったものがある。

それは自分に対する自信と肯定感

 

毒親の無教育で得られなかったものがある。

それは「常識」と「正しい行いとは何か」ということ。

 

普通に育った人が普通に得られるものが得られない。

しかも、しなくても良い自己否定をし続けてしまうというおまけ付きである。

 

何をどう考えれば「理解する」なんてことができるんだろうか?

いったい「理解」の向こうに何があるんだろうか?

 

毒母は自分の言動を止められない。

だから何十年も他害(暴言)が続いている。

 

相手はいつまでも言いたい放題したい放題なのに、それでも理解して配慮しないといけないの? 

それで何が変わるの?

私に「いい事」なんてあるの?

 

酷い差別発言だとわかっている。

でも、こっちだって苦しいんだよ。

 

他人だったら、さっさと関係を断てばそれでしまいだ。

でも身内はそう簡単なことではない。

だって親だよ、一体私にどうしろって言うんだ?

 

理解なんてしたくない、配慮なんて絶対しない、

そう思ってしまうのは毒母への「復讐」なんだろうか?

 

…たった一つ言えること、

誰の親にもなってほしくなかった、一人で勝手に生きていてほしかった。

それだけだ。

 

 

見た目も幼い毒母

 

うちの毒母は見た目がとても幼い。

 

「若々しい」とはちょっと違う。

大人としての落ち着きとか、年相応な「年輪」みたいなものがほとんどない。

子供がそのまま老けた感じとでも言うのか、なんだか奇妙な「幼さ」がある人だ。

 

人の成長が最も現れるのは「目」だと思っている。

 

幼児の頃は、ふんわりとした天真爛漫な目をしている。

小学生になると、キリっとした目元になってくる。

そして段々と、その年齢に見合った知的な目になっていく。

老人になると、まろやかな穏やかな目になって終焉を迎える。

 

ところが毒母の目は変わらない。

いつの年齢でも、幼くぼんやりしている。

だから母の過去の写真を見ていると、すべて同じような顔に見えるのだ。

 

今の時代「若く見える」は褒め言葉のようになっているが、必ずしもそうとは思えない。年相応の成長を遂げていないとも言えるからだ。

 

年齢に見合った美しさと言うものがあると思う。

それは「見た目の若さ」ではない。

 

大人の利発さ、精神的な成熟、そんなものがにじみ出たような美しさ。

それが本当の「大人の美」だと思う。

成長を遂げた顔こそが美しいのだと思う。

 

 

 

毒親は子どもを褒めない

 

毒親ってなぜ自分の子どもを褒めないんだろうか?

 

何か頑張ったことがあっても、「そんなん、私でもできるわ!」とか「誰でもできる」と言われるか、「それってどのくらいすごい事なんだ?」と訊かれるとか、とにかく「よく頑張ったね、良かったね」とは言われない。

 

子どもに自慢されたと感じるんだろうか?

 

うちの毒親はよく「○○さんに自慢された」と言う。

話を聞くと自慢されているようには思わないが、毒親は「自慢された!」と言ってきかない。

 

私の推測なんだけど、話の中で自分が「負けた」と思うと、それを「自慢された」と感じるのではないのかなぁ…と。

 

だから相手が自分の子どもでも、「負けた」と感じたら「自慢された」と勘違いしてしまうのかもしれない。

 

これはもう、毒親の反射反応なんだろうなと思う。

「負けた!」⇒「自分を守らないと!」⇒「嫌味・暴言を言う」

 

今でも残っている嫌な記憶がある。

 

小学生だったある日、習い事の先生からきれいなハンカチをもらった。

うれしかったので家に帰って母に報告すると、

「そんなハンカチ、みんなもらっている! あんただけがもらったんと違うわ!」」と言われ非常にショックだった。

 

保護者一同からのお中元のお返しだったようだが、子供が喜んでるんだから「良かったね」でいいんじゃないの? なぜそんな嫌なことを言う必要があるんだろうか。

 

こんなことでも「子供に自慢された!」と感じてしまうんだろうか?

究極のコミュ障とはこういう人のことを言うんだろうと思う。

 

 

 

 

子どもにおもちゃを買うなんてもったいないと言う毒母

 

うちの毒母は「子どもにおもちゃを買うなんてもったいない」と思うのだそうだ。

 

そういえば私が幼い頃、母に「おもちゃ」を買ってもらった記憶がない。

自分から「これが欲しい」と言って買ってもらったものは、今でなら数百円くらいのパズルや塗り絵、折り紙の本とかそういうものばかりだった。

 

「ちゃんとしたおもちゃ」を買ってくれたのは、たいてい父方の祖父だった。

1年に数回、自宅に遊びに来た時には必ず何かのおもちゃを買ってきてくれた。

 

リカちゃんファミリーやリカちゃんハウス、当時はやっていたメイクセットなどももらった。ハーモニカや木琴などの楽器、子供用の自転車(天地真理のシンデレラ自転車)もあったなぁ。

 

こうして書いていると、幼児の必需品は、ほとんど祖父からもらっていたことになるな。

 

そういえば、母に何かをねだった記憶もあまりない。

 

母は何も気が付かない人なので、はっきり「ほしい」と言わないとわからない。いや、言っても買わない。

 

母に強くねだったのは「リカちゃんの双子の赤ちゃん」「ピアノ」だけだ。

 

「双子の赤ちゃん」に関しては、「テストで100点取ったら買ってやる」と言ったので、私は100点を取って約束通り買ってもらった(小学校の簡単なテストです)。

 

もちろん「偉かったね」などという褒め言葉なんてない。

お金をもらって一人で買いに行ったのを覚えているだけだ。

 

ピアノもなかなか買ってもらえなかったので、と言うか、習うことを許可してもらうのに2年かかったので…それも叔母の口添えでやっと。

だからピアノも、「そろそろピアノで練習しないと」と先生から言われ、しぶしぶと言う感じだった。

 

とにかく、幼い子どもにお金をかけるのが嫌だったんだろう。

 

遊んだり食べたりすることにはバカほどお金をかけるが、子どもの事には本当に渋かった。

 

だから母が「あれもしてやった、これもしてやった」と言うのを聞くと、非常に複雑な気分になる。

それはたいてい、遊園地に連れて行ったとか旅行に行ったとかで、自分がしたいことの延長だったんじゃないの?と思ってしまうからだ。

 

母は多動の傾向があるので、今も昔もしょっちゅう出かけている。

 

出かけても、別に子どもと一緒に遊ぶわけではない。

子どもはほっておかれるか追っ払われるかのどちらかで、インドアな私としては何も楽しいことはないのだ。

私はそもそも遊園地のような騒がしい場所は嫌いだし、乗り物もスピードが怖くて乗れない。

 

母が疲れて切れるので、家族旅行も好きではなかった。

土日の度にうろうろと外出に付き合わされるのは、うんざりしていた時期もあった。

 

母は子供の好きなことなんて知らないし、知ろうともしない。

 

小さな子どもが何かに熱心にしていたら「この子はこういうことが好きなんだな」と気づいて、そういうものを買い与えるとかすると思うんだけど、母は全く気が付かない。

 

私は幼い頃毎日のように工作やお絵描きをしていたんだけど、母にそれを言うと「え? そうだったの?」と言われたくらいだからなぁ…

 

そして表題の通り、

「子どもにおもちゃなんて買うのはもったいない」と言うんだ。

 

そんな風に幼い頃にはお金をかけなかったのに、子供が大人になってから現金を配っている。

 

これってどういうことなんだろう?

 

お金に余裕ができたということもあるんだろうけど、単純に「感謝されたいから」じゃないの?と、穿った見方をしてしまう。

 

小さい子供にお金をかけても少しも感謝されない(と毒母は思っている)が、大人にお金を配れば感謝される。そう思っているんじゃないのかな?

 

いい歳の大人が親からお金をもらって喜ぶ。

それを良いことだと思っているんだろうか?と疑問に思う。

 

困った時に助けてくれるのはありがたいけど、そうでなければ毒親からお金をもらってもそんなにうれしくないのが本音だ。

 

だからと言って受け取り拒否をすると怒り出すからなぁ、おまけに「感謝がない!」と切れるしね。

 

お金って人を「縛る」ことになると思うんだけど、毒母はそう思わないのかな?

 

毒母のやることって、いつも何かが違うんだよね…

 

父はなぜ離婚しなかったんだろう?

 

ずっと不思議に思うことがある。

父はなぜ母と離婚しなかったんだろうか?

 

我が家は夫婦喧嘩が絶えない家だった。

私が幼いころから何度も離婚の話が持ち上がり、私が10歳の時にはいよいよということになった。母が私たち子ども連れて家出をしたのだ。

 

結構長い期間で、2か月ほど母は親戚の家にいた。

私は小学校があったので一人家に帰され、しばらくは父との生活だった。

 

父の親は離婚には賛成だったらしい。

しかし父は離婚しなかった。そればかりか離婚しないように母に頼んだのだ。

 

私は父に離婚してほしかった。

 

母は明らかにおかしい。父もそれはわかっていたと思う。

いつも「なぜお前は、そんな風に○○なんだ!」と怒っていた。

にもかかわらず、何が結婚生活を継続させる理由になったんだろうか?

 

父と母、どちらと一緒に暮らしたいかという話になった時、「絶対に父について行こう。あんな母と一緒にいたら私はダメになる」と思った。

たった10歳の子どもがそう思うのだから、母はよほどひどかったのだ。

 

父の懇願で離婚の話は霧散し、相変わらず派手な喧嘩を繰り返しながら父は70代でこの世を去った。父は本当にあれでよかったんだろうかと時々思う。

 

父が末期がんであと半年あるかないかという時に、母は父に詰め寄ったそうだ。

「私はよくやったよね! 家のことも家計のことも良くやったと思うやろ?」ときいたと言う。

 

呆れると言うかなんというか…

 

立場が逆なんじゃないのかと思う。

何か言うんだったら、「お父さん、よくやってくれてありがとう」じゃないの?

それが言いたくないんだったら、黙ってればいい。

 

死を前にした人にさえ、自分を認めさせたいという欲が消えない母親。

この人は一体なんなんだろうか…

 

父は一体こんな人の何が良かったんだろうかと、不思議でならない。

 

 

何をしても上達しない人

 

 

上達がない

 

母は昔から習い事が好きだ。でも上達したものは一つもない。

インドアからスポーツまでいろいろやっていたけれど、どれ一つとして上手くなったものはない。

 

下手でも楽しいからいいんだ、と言うならそれで構わない。

でも母はいつも「上手くなりたい!」と言う。でもその希望が叶うことはない。

 

上手くなろうとしない

 

母は「上手くなるには何をしたらいいのか」を考えないまま、ただ闇雲に同じことを繰り返しているだけなので進歩がない。

教えられた通りそのままで、自分なりの工夫がないんだ。

 

例えばフラダンス。

10年近く習っていたが、まったく上手くならなかった。

 

いつまでたってもロボットみたいで、手や足をただ動かしているだけである。足の動きに関しては反復横跳びのようだった。

 

フラダンスのあの優雅な動きは、全身運動のたまものだと思う。

 

足や背中、腰の筋肉が重要なんだろう。まずは腰を落として動けるように練習したらいいのではないか。そのためには、まずは軽い筋トレが必要だと思う。

 

母が「上手くなるにはどうしたらいいと思うか?」と聞くのでそう伝えた(私はフラの経験がないので素人意見だが)。

 

すると母はフラダンスを辞めた。

 

つまりは手っ取り早く、労力をかけずに上手く「見せたい」んだ。

 

残念ながら、そんな都合の良い方法はない。うまくなりたいのなら日々の努力は必須だ。

 

しかし母はある一定以上の「努力」をしない。たまに頑張ってみても、たいていその方向性を間違えている。

 

上達しないわけ

 

母が上達しない原因を並べてみた。

 

何をするにも適当で、よく調べもしないし練習方法も間違っている。

 

「前は失敗したから今度はこうしよう」と「反省」がないので、毎回同じことを繰り返すだけで終わっている。

 

自分なりの工夫がないので「自分のもの」にならない。

 

先生が言っている意味を理解していない。わからないのなら突っ込んで質問すればいいのに、それができない。

 

⑤そして最大の理由はこれ、努力が嫌い

 

そういうわけで、積み重ねが一つもなく、努力もしないので上達するわけがない。

 

でも母にすると「上手くならないのは先生の教え方が悪いからだ」となる…先生への悪口もさんざん言ってたからね。

 

更に、ちゃんと練習したり予習してくる生徒さん(同年代のおばさん&おばあちゃん)に対しても、「あの人が練習なんてしてくるから、レッスンが先々進んで迷惑だ」と悪口を言っていたくらいだからなぁ。

 

母よ、何か間違ってませんか? 

 

変な八つ当たりは止めた方がいいよ。練習してくるのは当たり前ですよね? 

 

何もしない方が良い

 

まぁ…見ていると、何をどうしていいのかがわからないんだろうな、と思う。

 

推察する力がないから、先生のアドバイスの真意が読み取れない。

質問しようにも自分に自信がないもんだから訊けないし、どう訊いていいかもわからないんだろう。

 

「頭の中がカオス」

 

これが母の最大の特徴だと思う。

 

こういう人は人の悪口や噂話に花を咲かせながら、日々、何となく生きていくのがいいんだろうと思う。その方が本人もストレスがないだろう。

 

なまじっか「何かしないと」とか「できるようにならないと」と思うから、周りが巻き込まれて迷惑をするんだ。

 

自分のテンポで生きたほうがいいと思う。