悪党は誰?
『ヒメアノ~ル』と言う映画を見た。
2016年公開なので、7年前の映画だ。
(映画と原作では若干設定が違うようなので、ここでは映画の場合のみとする)
以前から気になっていて、でも見た後きっと気分が落ちるよなぁ…と思ってなかなか見ずにいた映画だった。
予想通り…やっぱり気分が落ちた。
この種類の映画を見た時感じるのは、
「あぁいう悪党って現実にいるよなぁ」と実感を持って思う、という事だ。
「あぁいう悪党」とは連続殺人鬼・森田君の事ではない。
森田君を虐めたおした河島の事である。
悪党との距離感
ふと、友人が言っていたことを思い出した。
「中学校には素行の悪い子がいて色々悪さをしていたけど、彼らと自分は関係ないから、居てもいないのと同じだった。」
なるほどなぁ…と思った。
良い家庭環境で育った人は、そんな風に思うんだなぁ…と、自分との差を感じて少し寂しかったのを覚えている。
私は「関係ない」とは思えなかった。
なぜなら、その「素行の悪い人間」が家にいるからだ。
しかもそれが「親」だからだ。
言葉は悪いが、頭のイカれた親を持つと、
世の中の悪党の存在をものすごく現実味を帯びて感じることになる。
どこか遠い世界の、自分とは無関係の人間だとは思えないのである。
「普通の人」として存在する悪党
息を吐くように他人を虐める人間。
虐めているという自覚が全くない人間。
そういう頭のイカれた悪党って本当に存在していて、案外「普通の人」のように振舞いながら、「普通の生活」をしていたりするんだよ。
でもそいつの本質的な部分は一生変わらなくて、家庭や職場やいろいろな場所で、相変わらず「悪党」だったりするんだ。
でも不思議なことに被害に合った人間ほどには人生が潰れなくて、特に断罪されることも無く一生を過ごしたりするんだよ(この映画では違うけど)。
森田君の人生は潰れた。
彼の非道な行いの是非を、ここでは問わない。
森田君を裏切った意志の弱い岡田君の是非も、問わないことにする。
ただひとつ確かなことは、森田君は潰れてしまったってことなんだ。
でも世間は、彼の人生が潰れてしまった事実を知る事はないだろう。
たとえ知ったとしても、「虐められた人間が、みんなああなるわけではない」と言うだけだ。
結局そうなんだよ。
虐めでも何でも、被害に合った人間が潰れてしまったとしても、それはその人が「弱かった」からであって、そんなことぐらいで潰れるその人が悪いってことにされるんだ。
うちの毒親もよく言ってたよ。
虐められるのは虐められる人間が悪いんだ、って。
虐められるような人間だから虐められるんだ、って。
だから自分が人を虐めても、その自覚が全くないばかりか、いじめられて困っていると訴えた事に、逆ギレすることさえあったんだ。
「強者」と「弱者」
『ヒメアノール』とは、「強者のエサになる弱者」という意味だそうだ。
「強者」とは誰か?
「弱者」とは誰のことを言うんだろうか?
属する世界や環境が違えば、その立場は一瞬で入れ替わる。
家庭という狭い世界では強者だった毒親も、子どもが外の世界を知れば知るほど、彼らがただのバカだったと悟るように。
自分の人生をヒメアノールにしないために、強者は実は強者ではないと、できるだけ早く知ったほうがい良い。
とまぁそんなこんなを思う、予想通りに重い映画だった…