母方の祖母も、決して良い母親ではなかったようだ。
迷信半分、しつけ半分で、娘にやけどの跡が残るような「やいと」をしたり、こん棒でぶん殴ったりしていたそうだ。
子どもに対する無理解な嫌味、他人の悪口や、身内の好意に対しての暴言もあったらしい。
しかし母は、祖母をあまり悪く言わない。
祖母がこん棒を振り回していたことも、「当たると痛いから逃げるんだけど、たまに兄弟が当たって、たんこぶを作っていた」と楽し気に語るんだ。
何が楽しいんだろうか? と思うんだけど、母は私ほどは辛さを感じないようなんだ。
さすがに「やけど跡」の事は恨みに思っているみたいだけど、それもほとんど忘れている。
同じことをされても、ものすごく辛いと感じる人と、そうでもない人とがいる。
母の辛さが深くならないのは、「それ以上考えない」ことが幸いしているんだろうと思う。
逆に私が辛いと感じるのは、母がなぜそんなことをするのかという「意味と目的」を考えてしまうからだと思う。
それは子供の頃からそうで、父母の喧嘩でも「何故この人はこんなことを言うんだろうか」と、妙に冷静に発言の目的を考えていた。
今なら、喧嘩中の発言に目的なんてない事はわかるんだけど…
母があっさりと忘れてしまう事を、私はいつまでも覚えていて、苦しさがなくならない。
互いのセンサーがあまりに違う事と、記憶の仕方とか思考の方法とか、とにかく脳の使い方が全然違うんだろうな。
もし私が母のような娘だったら、私は母を「毒親だ」とは思わなかったんだろう。
傷つくことを言われたり、物を投げつけられたりしても、「なんかそんなこともあったなぁ」と、まるで楽しい思い出話のよう語るんだろう。
そう思うと、私たち親子は、なんて不幸な出会いをしてしまったんだろうと思うんだ。
中学生の頃から思っていたこと、この人がもし赤の他人だったら、互いに接触することは絶対にないだろうって。
もし同級生だったら、卒業するまで一度も関係がないままだろう。もし職場の同僚なら、必要最低限の話しかしないだろう。
互いに相手が何となく嫌いで、「この人とは合わないなぁ」と接触を避けるだろう。
そういう人間同士が、間が悪いことに「親子」になってしまった。
「なんでや?!」と思うよ。
この地球上には70億人もの人が生きているのに、なぜこの組み合わせ? と思うよ。
時に神様は残酷なことをするよね。