自分の感情を疑うのは
私には「あの人を嫌ってもいいのだろうか?」「本当は自分が悪いのではないか」と、問題の総点検を始めてしまう癖がある。
自分の感情に疑いを持ってしまうんだ。
でもそうすると考えの堂々巡りが始まって、気持ちはモヤモヤするわ、カオス状態になるわで良いことは何もない。
だからそんな不毛なことはやめにして、もっと単純に相手を嫌っても憎んでもいいんだと思うんだ。
嫌う理由に正当性がなくても、「嫌う」「憎む」と言う感情は所詮主観的なものなんだから、そこまで深く考えないでもいいんじゃないかと。
不快の基準はいろいろ
同じ状況でも、より敏感に察知する人もいれば、意外と鈍感で何も感じない人もいる。
だから「不快の基準」なんてものはない。
そこれは「いじめ」と同じだ。
誰が見ても「いじめだ」とわかる行為は別として、「いじり」とか「嫌味・暴言」につては、捉え方に個人差がある。
だから「気にするお前が悪い」と言うのは違うし、「デリカシーのないことをする」と相手を責めるのも違うんだろうなと思う。
人がそれを「いじめだ」と感じるなら、その人に対してはその行為をやめた方が良い。
でもそうすると相手に対しては多少の我慢を強いるわけで、する方もされる方も互いに「不快」になるんだろう。
「一緒にいるとイライラする」
波長が違うってこと、馬が合わないってことだ。
ただそれだけの事なんだから、素直に「嫌い」になってもいいと思うんだ。
学校や職場なら完全に離れることはできないけれど、嫌いになって気持ちを離すことは自由だ。
無理して「良いとこ」を見つけたり、「理解しよう」なんて思う必要はないんじゃないだろうか。
自分に正直に
なぜ自分の感情に素直に従えないかと言うと、母と同じ種類の人間になってしまいそうで怖いからだ。
母は主観だけで生きている人間なので、私は「単純に考えること」や「感じたままでいること」を、ものすごく悪いことのように思ってしまう。
それで過剰に「ものわかりのいい人」や「正しい人」になろうとしてしまう。
そんなことは不可能なのに。
でも自分を追い詰めないためには、自分の感情を素直に受け止めることも必要なんだよね。
母のようになりたくない!とこだわるのも、母への執着の一種なんだろうと思う。
母から完全に開放されれば、「母」を基準に考えることはなくなるんだろう。
自分の中にある「負の感情」を正直に受け止められるようになったなら、自分が自分であると言えるんだろうな。
それがいつになるのかわからないけれど、そんな日がきたらいいなと思う。