毒親育ちの毒親考察

私の母は何かがおかしい

自分の人生を生きてない感じがする

 

 

確かなものがない心細さ

 

20代で結婚するまで、ずっといつも心細かった。

 

自分の心の中に「確かな何か」がないという不安がずっとがあった。

 

「人生の道しるべ」がないというのかなぁ…

 

大人がいない家

 

それは、我が家に「大人」が一人もいなかったからではないかと思うんだ。子供の道しるべとなるような大人がいない。

 

我儘な子供が二人(両親)。そして正真正銘の子ども達。いつも子どもばっかりで暮らしているような感じがしていた。

 

計画性がなく、考えもなく、その日その日が面白おかしく過ぎればいいやというやる気のなさ、そのくせ、くだらない競争心と虚栄心だけは人一倍強い。

 

そんな虚無感が漂う家だった。

 

父は本来、冷静で先を読むことができる人だったと思う。しつけにも厳しくて、常識のある普通の人だった。少々頑固でこだわりは強かったけど。

 

でも父は「昭和の父親」だから、時間的にも心情的にも、家族への対応は不十分なものだった。

 

母を批判して、家のことが自分に降りかかってくるのは嫌だという気持ちも透けて見えた。

 

父親はあてにならず、本来家族の要となるはずの母親が「お子さま」なので家族のリーダーにはなれず、その結果、てんでバラバラの「子どもの家」になってしまったんだろうな。

 

何が「正しい」のかわからない

 

母の気ままな対応はその時々で違い、一貫性がない。だから子供はどうするのが正しいのかがわからない。

 

いつも母親の顔色を窺って、母が怒り出さなければ「正しい対応」で、癇癪を起せば「間違い」だったとなる。

 

それは「普遍的に正しいこと」ではなく、「母親を静かにさせておくために正しい行動」でしかない。

 

子どもは家庭だけではなく、社会の中でも育つのだと言われる。

 

それはその通りなんだけど、外の世界で得た情報と家の中の情報が違う場合、子どもは混乱する。どちらの言う事が正しいのかと、時間をかけて吟味しないといけなくなる。

 

どんな家庭でもそんなことはあると思う。

 

でも確認すべき数が多いほど、時間がとられるし混乱も大きい。

 

人生の迂回と虚無感

 

私が現在従っているのは、ほとんどが「外の世界で得た常識」だ。

 

でもそれでよいと心から納得できたのは、つい最近の事で、人生の半世紀が近づいた頃だった。

 

人生の大半を、母から受けた価値観と世の中の常識とのすり合わせで終わったことになる。

 

大きな迂回をしたものだ。

 

人生に悩みはつきものだし、親と子供の意見の相違は常だろうと思う。

 

でもそれとは何か違うんだ。そんな人生の糧になりそうなことではないんだ。

 

「無駄な時間でしかない」としか思えないような徒労感というか、あぁ、なんといえば言えばいいのかなぁ…?

 

素直に「嫌だ」と思えない

 

きっと私、疲れてるんだろうな。

 

母の顔色ばかり窺って生きてきたから、結婚してからは夫の顔色ばかり窺っていた。

 

夫の名誉のために言うが、夫は決してそんな人ではない。私が勝手に「窺って」しまうんだ。

 

癖になってるんだな。

 

こういう見えない苦労って、どういえば人に伝わるんだろうな?

 

考え過ぎだとか、気にしすぎだとか言われると、もうどうしようもない。

 

ずっと母親から「あんたは何でも気にしすぎる!」と言われてきたせいか、嫌なことがあっても、自分の気性のせいなのかと思ってしまう。

 

素直に「嫌だ」と感じることができなくなっているんだ。

 

なんだか、迷路にいるような気がする。

 

こんがらがっていて、それが子供の頃の心細さになっていたのかなぁ…

 

わけのわからない話になってしまっけれど、なんだか…自分の人生を生きてない気がするんだ… 

 

時々、自分はもう死んでいて、自分の幻を見ているんじゃないかと、変なことを思ってしまう…

 

やっぱり私、疲れてんだな。