毒親育ちの毒親考察

私の母は何かがおかしい

「毒親問題」の終着点はどこにあるんだろう?

 

これまで「です・ます調」で書いてきましたが、文章が長くなってしまうので、今後は「だ・である調」で行こうと思います(どっちでも良い話ですが)

 

毒親たる理由がわかればいいのか?

 

さて本題です。

例えば母が精神科を受診したとして、その結果、発達障害とか自己愛パーソナリティー障害なんていう病名を頂いたとする。

 

そしたら私はどう思うんだろうと考えた。

 

「な~んだ、そうだったんだ。あの暴言も嫌味も癇癪や暴力も、みんな○○症が原因で母の責任じゃなかったんだね。よかった、よかった」となるのか?

 

う…ん、やっぱりそれは無理…だ。

 

自分のせいではなかったとわかることで、自分を責めたり否定したり、そういうことはなくなるかもしれない。でも過去と現在抱えている苦しさを、全部なかったことには、やっぱりできない。

 

それに若い頃ならいざ知らず、ある程度年を取ると「自分のせい」とはもう思わなくなっているものだ。

 

毒親の異常性を分析したり、同じような症例を調べてみたり。今はネットというありがたいツールがあるので、素人でもある程度のことはわかるようになっている。

 

だから、仮に母親の障害名がわかったとしても、「やっぱりね」くらいの感情しかない。

 

じゃあ、毒親問題解決の着地点ってどこにあるんだろう?

 

毒親に自覚が芽生え、「今まで苦しめてきたんだね、ごめんね」と謝ってくれたらすっきりするんだろうか。

 

それとも、毒親が私の前から永遠に消え去り、いなくなってくれたら心穏やかになるんだろうか。

 

…なんか、どれも違うような気がする。

 

自分の土台に「毒」がある

 

じゃあ、何がそんなにすっきりしないのかを考えてみると、今の自分があの頃の苦しさの上に出来上がってしまっている、という事への腹立たしさなんだろうと思う。

 

なんだかね、人生を大きく迂回させられた気がするのよ。

 

子どもの頃からずっと、毒親の訳の分からない、その場限りの気ままな言動に振り回された続けた感があまりに大きい。

 

悩み続けることがなかったら、私はもっと違った場所に行けたんじゃないか? 

もっと違った自分になれたんじゃないか? 

心療内科に通い続けることなんて、なかったんじゃないか?

 

そんなことを思ってしまう。だから何がどうなってもすっきりなんてしない。すべて過去のことで、今更変えようがないから。

 

もはや「自分らしさ」もわからない

 

私は、今の自分が嫌いなんだね。

 

だから毒親が許せないんだろう。自分のことが大っ嫌いと思うような私を作った責任の幾分かは、毒親にあると思っているから。

 

確かに生まれつきの気性もあると思う。私は不安を抱えやすくて、周りの変化に敏感で、そういう気質はあると思う。

 

でもそれでも、毎日神経を尖らせて、毒母を爆発させないようにピリピリしていた自分がいたのは事実。そのことが今の私の苦しさに大した関係はないよとは、どうしても思えない。

 

何度も言うが、じゃあ、毒親問題の終着点はどこにあるんだろうね?

 

そもそも、そんなものがあるのか?

 

親への執着心をなくすこと

自分らしく生きること

 

良くあげられているのはこの2点。

確かに…親から心を離して自分の人生を生きる。それしか解決策はないのはわかっている。でもこれがなかなか…難しいんよ。

 

「自分らしく」がもう、わからなくなっているからね。

 

自分らしくってどんなん? どんな感じが自分らしいの?

 

長きにわたって注入された毒の排出には、長い長い年月が必要だけれど、排出しきったとき「自分らしさとは何か」がわかるんだろうか。

 

もしそうだとしたら、その時が楽しみでもある。泥がきれいに流された先に、どんな自分を見るのか。その日を夢見て、今日も元気でいよう。