少し前だが、はてな匿名ダイアリーにこんなのがあった。
母親にとって子殺しってキモくないんだな:追記 (hatelabo.jp)
育児に悩んだ母親が3人の娘を殺害し、自分は自殺に失敗するという事件だ。
手にかける前にパンケーキ食べさせる…「最後に子ども喜ばせたかった」娘3人殺害事件で母親 : 読売新聞
何が怖いって「無責任に逃げろ」って言ってる俺より、3人の子供を確実に殺せるように別室に移動させて順繰りに絞め殺した奴に共感してるとこなんだよね。
益田さんは、この母親に同情したり共感したりするコメントが多い事に憤っている。
「育児に悩んでた」「追い詰められていた」ってあるけど、そこと子供を殺すことに論理的な整合性ないよね。
全くその通りだ。益田さんはどこまでも正しくて反論の余地もない。
しかし、である。
この母親の心情が(「心情」として書かれてあることが)、まるで「これってかつての私のこと?」と思うほど身に覚えがあるのだ。
何を隠そう、私も思ったことがある。
我が子がいなくなってくれたらいいのにと、そうすれば私はこの重い責任から解放されて楽になれるのかもしれない、と。
私も立派な毒母であり、人でなしであり、”おかしいやつ”なのである。
子供がどれだけ親を信じてくれるか感じた事がないんだろうな。
感じていたし、今も感じている。
我が子のほかに、私をこれほどまでに必要としてくれた人間がいるだろうか。これほどまでに愛してくれる人間がいただろうか。現在過去未来において、そんな人は我が子以外にはいないだろうと確信している。
その「子から親に対する愛」を裏切ることが、どれほど鬼畜な行為か。それもわかっている。
完璧でなくてもいいのだ。子育ては「そこそこ」でいい。そんなことは百も承知している。
しかし、どうしてもそう思いきれないから困っているのである。
自分の気づきのなさで、子どもの健康が害されるのではないか? 自分の配慮の無さで、子どもが不利益を受けるのではないか?
そんな不安が頭の中に渦巻、いつまでも消ることなく私を苦しめる。「今すぐ動けば間に合うのではないか?」 そんな焦りが、いつもいつも心をざわつかせているのである。
この心のざわつきを消してしまいたい。何も心配することなく、焦ることもない平穏な日常を過ごしたい。
そのためには自分を追い詰める「元凶」を消し去ってしまうしかない。それが唯一、この苦しい現状から逃げる方法なのだと、そんな気持ちが昂じたいのではないかと勝手に想像するのだ。
世の中に溢れる、自分よりはるかに立派な母親像の数々。
子どもを産み育て、子ども達はみな優秀。仕事もバリバリこなし出世もし業績をあげ、世の中に認められ賞賛される母親、スーパーウーマン。
しかし、そんなものはその人の一面を表しているにすぎず、マスコミが紙面を賑わすために取り上げているだけのものだと分かっている。
こだわりが強く完璧主義、世の中の情報に翻弄されやすい特性。そんな人間の愚かな思考と行動なのだ。
この母親がしたことは、釈明の余地もない、同情を呼ぶ所以も無い鬼畜の行為だ。だから論理的に冷静に、司法が裁けばよいのである。
ただ、私は許してほしいのだ。
共感することを許してほしい。私もそうだったよなと、苦しい思いを思い出すこと、そして今も苦しんでいることを許してほしい。
母親は「子どもを心配すること」が仕事であると言う。その心配や不安を抱えたまま、私が寿命を終えるのを許してほしい。
こんな愚かな母親を許してほしいのである。