毒親育ちの毒親考察

私の母は何かがおかしい

「自己肯定」も、やり方を間違えれば厄介なことになる

 

これまでも何度も書いているが、

うちの毒母は大人としての行動がとれない人だ。

 

常識がない。

世の中の習慣的なことができない。

 

そういう人だ。

 

幸せに生きるためには「自己肯定感を持て」と言われる。

ありのままの自分を認め、尊重し、受け入れるということだ。

 

全くその通りだと思うが、できない自分を受け入れるのはなかなか難しい。

 

だからどうするかと言えば、

「できなくてもいいんだ」と本来しなくてはならない「行為」の方を否定するんだな。「できなくても良いことができないだけだから、自分は何も悪くない」という論法だ。

 

うちの毒親もこの論法が大好きだ。

その結果、大人の作法のほとんどを否定して生きている。

 

いくつか例を出してみよう

 

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①隣近所に住んでいる人でも、自分の友達でなければ挨拶をしない。

⇒知らない人には挨拶なんてしなくても良いんだ!

 

*東京23区のマンションではありません。普通に挨拶し合う地域です。相手が挨拶していても気が付かないので、こういう言い訳をするんだな。

 

②結婚のお祝いでも新札を使わない

⇒お金はお金だ、何の違いがあるんだ!

 

*そこまで拘ることなのか?なぜ習慣通りにしておかないのか不思議。

 

④葬式や通夜の席で義理の親戚に会っても無視する

⇒お葬式で笑ってはいけない! 

 

臨機応変な対応ができないので「笑ってはいけない=会釈だけ(仏頂面)で通り過ぎる」となる。相手からすれば「なんで怒ってるの?」となるんだな。一度これでトラブルになりかけたこともある。

 

③葬式や一周忌でも「黒の普段着」で行く

⇒黒だったらなんでもいいんだ!

 

*ほかの親戚が全員「礼服」でも頑なに着ない。因みに父の葬式も礼服ではなく、黒のセーターと黒のパンツ(普段着)だった。礼服を持っているのになぜ? せめて黒のワンピースとかスーツってないの?

でもたまに礼服を着てくることもあるので、どういう法則で行動しているのか謎なんだ。

 

またこんな話もある。

父の一周忌の際に、私の兄弟が「どんな服装で行ったらいいか」と、事もあろうか母に聞いた。すると母は「破れた服じゃなかったらなんでもいい」と答えたそうだ。

 

それを真に受けた兄弟は本当に普段着で来てしまった。しかも「皮のライダースジャケット」という、仏教の法事には完全アウトないで立ちで(これもどうかと思うが)。

 

当然、親戚一同は目が点。叔父や叔母から注意され、兄弟は大恥をかくという事態になった。

 

常識のない人は「人の質問にもいい加減に答えてしまう」ということと、「育てた子どもはこうなる」という見本のような例だ。

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だいたいこんな感じで、世の中の習慣的なことを否定している。

できないことへの言い訳なんだろう。

 

自分がそうするならそれでもいい。

恥をかこうがどうなろうが、すべては自分の責任だ。

 

ところが、こういう親に育てられた子供は大変なんだよ。

何が正しいことなのかが、わからなくなるんだ。

 

高校生くらいになると、母親のしていることが変だとわかってくる。

でも母親を否定するのもはばかられる気がして、どうしていいのか迷うようになるんだ。

 

「私は苦手だからできないこともあるんだ」と謙虚な気持ちを持ってくれたら、一緒に考えて対処していくこともできる。

 

でもはなから「できなくてもいいんだ!」と否定されれば、協力することもできない。「なんでそんなことをするんだ!」と非難されることさえあるからね。

 

自己肯定感を持つって難しい。

 

やり方を間違えたり頑なになってしまうと、かえって厄介なことになる。

自分を守るだけじゃなくて、謙虚な気持ちが大事だよねと思うよ。