毒親育ちの毒親考察

私の母は何かがおかしい

只今メンタルが撃沈しているので、「学校が嫌いだった」の話をしようと思う【その⑥ 学校が嫌いという事は結局…巻】

 

考えてみると「学校に馴染めない」というのはすなわち「集団に馴染めない」ということであり、「協調性低し」「こだわり強し」という事なんだろうな。

 

その強弱で、騙し騙し卒業まで漕ぎつけるか、もうだめだ~~!!とギブアップ(不登校)するかに分かれるんかもしれん。

 

私の場合は「必死の擬態」と「変なプライド」でどうにか不登校には至らずに卒業することができたんだが、やはり楽しくはなかった。

 

この「楽しくなかった」ってのは不思議な感覚なんだ。

 

趣味的なことを話せる友達は学校の中にいたし、プライベートで遊ぶ友達もいた。

彼女達と話していると確かに楽しいんである。

 

でもそれは「その場にいないといけないからしてること」であって、学校には来なくてもいいよと言われたなら、私は絶対に行かなかったと思う。

それで何をするかと言うと、家で自分のしたいことを延々とし続ける。

 

結局のところ、私にとっての「人間関係」とは「情報収集」と「発表会」なんである。

 

自分がやってることの結果や成果を発表し、それについての反論や評価を聞きたい。単なる情報も「情報」だけど、こういう人の意見や感想も「情報」である。

 

それが「人に会いたい」と思う唯一の動機であって、だから世の女性が普通にやっているような「集うために会う」と言うのがどうしてもできないんでやんす。

 

だから学校に限らず、PTAやら町内会やら、だらだらとした集まりはすべて苦手でめんどくさい。

 

そんなこんなで、私は女子ワールドの基準からはズレた人間であって、それでよく「変わってるね」と言われるのである。

 

それが良い意味でないことはわかっている。

 

しかし、その「変わっている部分」を「面白い」と言ってくれる奇特なお方もチラホラいらっしゃる。実にありがたいことである。

 

だから私は昔から、嫌われる時はものすごく嫌われるし、好かれる時はもの凄く好かれるという、両極端な干渉の仕方をされる。

 

「ほどほど」がないのである。

 

それは「どんな場所でも、どんな人とでも、そこそこ無難に、薄く浅く付き合っていける」という、社会人として最も重要な要素がないってことで、それはすなわち「普通の人」よりも何千倍も不利なんであるよ。

 

私は何に対しても、「まんべんなく」とか「ほどほどに」とかができないんだな。

 

「普通の人」を見ていると「なんであんなに淡々と生きていけるんだろうか?」と思ってしまう。みんな実は「ロボット」なんじゃないか?と思う時さえある。

 

私は「血沸き肉躍るようなことがなくて、どうして生きて行けようか!」という人間で、ちょいと頭が沸いているのかもしれない。

 

そりゃあ「淡々の極み」みたいな「学校という組織」に合うわけないな。「会社」ってとこも学校とイコール(いやいや、それ以上だな)だから、こちらも然り。

 

人生最初の学校「幼稚園(保育園も)」が合うか合わないかで、自分の将来が占えるよね。恐ろしい事である。