毒親育ちの毒親考察

私の母は何かがおかしい

只今メンタルが撃沈しているので、「学校が嫌いだった」の話をしようと思う その① 擬態は大変の巻

最近、やたらと、メンタルの調子がよろしくない。

 

全くの見ず知らずの他人とは言え、

同じカテゴリーの悩みを抱えて自死してしまった事件は、

知ってしまった者のメンタルを崩してしまうほどのインパクトがある。

 

メンタルが撃沈すると、やたらと世の中に対して吠えたくなる。

 

ウザい奴だと思うが、人に向かって吠えるくらいなら、ココで文字にして吠えたほうが幾分ましである。

 

本日、非常に面倒な内容となっていることをご了承いただきたい。

 

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自死」に関して言えば、

そればかり考えて生きる人生か、

全く、あるいはほとんど考えたことがないという人生か、

このどちらかに大きく振れるんではなかろうかと思う。

 

私は、と言えば「そればかり考えて生きている人生」と言える。

 

最もひどかったのは義務教育期間中だった。

 

集団行動が苦手な子にとっては、子供時代に強制的に放り込まれる「学校」という場所は、ホントにホントに辛いのである。

 

高校1年の時に同級生が「登校拒否」になった時は、「そうか、この手があったのか!」と感動したのを覚えている。私には「登校を拒否ㇽ」なんて言う発想がなかったので、「すごい奴だな」と感心したのである。

 

いじめにあってたとかハブられてたなんてことはなかったし、友達もいたし、それなりに「普通」を装って過ごしていた(と思う)。

 

しかし、45分単位で決められているガチガチのスケジュールと、始終周りに人がいることへのストレスと、独りで好きな事をしてはいけないという「友達100人信仰」に疲れ果てていた。

 

つまりは「普通への擬態」にヘトヘトになっていたってことだ。

 

関心を持った授業の内容を「もう少し深堀したい!」と思っても、10分後には次の全く違う教科が始まってしまう。

 

「もうちょっと凝って仕上げたい!」と思っても、図工の時間は決まっていて、その中で適当に切り上げて出さなくてはいけない。

 

「決められた時間内で最高のパフォーマンスを出す」というのが学校の最重要課題であり、容赦がないのである。

 

そりゃそうだよね、と今ではわかる。

 

学校は別に哲学者や冒険家、なんだか得体のしれない者を養成するためにあるのではない。

 

将来、最低限、自分で食べていけるような人間にするためにあるのだから、他人との協調や時間厳守は必須だし、45分ごとの頭の切り替えは必要だし、こだわりを捨て、時間内に形を付けて提出できる人間でなくてはならない。

 

学校は、そういう事ができる人間とできない人間を振り分ける場所だと言える。決して「養成所」ではないのである。

 

だから「探求心のある子どもに!」とか「何事にも疑問を持ち追求しよう!」とか「問題解決能力を!」なんて言う教育スローガンを聞くと、「ホンマにそんなこと思ってます? そんな子供をホンマに必要としてますか?」と言いたくなるのである。

 

そういうことができる子は普通の小・中学校に行くと、まぁたいてい「ウザがられる」のではないだろうか。

 

同級生からは「変わった子」扱いされ、先生からも「めんどくさい子」と思われたりする。少数派はこの頃から、なんの良いこともないのである。

 

そんな教育スローガンはガン無視で、みんなが好きな事を好きと思い、みんながしているようにし、みんなが考えている事を同じように考える。

 

それでこそ「学校は楽しい!」と言えるのではなかろうか。多勢の一人であるという安心感が味わえるのであるから、そりゃあ楽しいであろう。

 

夏休みがもうすぐ終わりますね~、なんていうTVニュースでよくやる「夏休み、どうでしたか?」っていう小学生へのインタビュー。

 

最もよく聞く回答は、「学校が楽しみ~! 友達に会える~!」と言うもの。

 

私は昔からあれを聞くたび、「ホンマなんか!?」と不思議でならなかった。

 

学校が楽しみってどんな感情なん?

友達に会えるのが楽しいって、どんな感じなん?

 

私には全ー---ったくわからない感情だったので(今もわからん)、ものすごく不思議だった。

 

「きっとあれは大人が欲する回答を言ってるだけなんだろう、偉いなぁ…この子は」と思って見ていたくらいだ。

後年「本気で言ってたんやね…」と知った時は、ちょっとした衝撃だった。

 

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物凄く長くなりそうなので、次回持ち越しとしよう…