「本当の私は…」というセリフがある。
後に続くのは悪い事の場合もあるし、良い事の場合もある。
でも「本当の私」を一番わかっていないのは、その人自身だと思っている。
「実在する本当の私」とは「他人の目に映っている私」のことだ。
「これこそが私である」と思っている「私」は、自分が作り上げた架空の人物で、実在しない想像上の「私」だ。
しかし誰だって自分を保つためには、「実際よりも良い私」を思って精神の安定を図ろうとする。
「周りの人はああ言うけれど、本当の私はこうなんだ」と、自分を労わることも必要だ。いつも「本当の私」を見せつけられたのでは、とてもやってられないからだ。
そして時には自分の失敗や責任のいくらかを、他人のせいにしたり押し付けたりもする。他人の悪口や批判をして、溜飲を下げようともする。
人間は神様でも仙人でもないので、そうやって精神のバランスを取りながら生きているのだと思う。それが「人のさが」というものだろう。
ところが世の中で「毒親」と呼ばれている人々は、その度をはるかに越しているのだ。
「人のさが」の塊のような人々なのだ。
自分が思い描く「架空の私」を、実在の自分だと信じて疑わない。
失敗や責任転嫁も「いくらか」どころではない。100%の押し付けを図り、自分は何も悪くないと言い張る。
一体彼らはどんな世界で生きているのだろうか?
虚構の世界から一歩も出ることができないのだろうか?
虐待などの明らかな犯罪行為がない場合、毒親育ちのしんどさがなかなか理解されないのはこういうことだろうと思う。
「人間の負の部分」は誰にでもあるが、その分量と質が違うことを説明するのは難しい。
毒親の話は滅多にしないが、たまに言うと「それってうちの親もあるよ」と言われることがある。身勝手な話だが、そう言われると心底がっかりしてしまう。
気を遣って言ってくれているのはわかるのだが、それでも「質と量が違うんだよなぁ…」と思ってしまうのだ。
体験しないことはわからないわけで、本当にこちらの身勝手な話なんだけど…
だから他人に毒親の話はほとんどしない。そんな話は聞きたくないだろうし、返答にも困るだろうから。それで余計に、モヤモヤが溜まっていくという訳なんだけどね。