毒親育ちの毒親考察

私の母は何かがおかしい

「弱者」について

 

弱者とは

 

 

貧困についての本を読んだとき、若者の就職支援を扱ったドキュメンタリーを見た時、そこに出てくる支援者は同じことを言っていた。

 

「どれだけ力を尽くしても、最後には裏切られることが多い」と。

 

確かにドキュメンタリーに出ていた青年は、見ていてだんだん腹が立ってくるような人だった。

 

就職先を斡旋してもらったにも関わらず、仕事の途中で「しんどいわぁ~」と床に座り込み、朝も当然のように遅刻してくる。身だしなみもいまいちで、靴の紐はべらべらのまま、持ってこいと言われたものも忘れてくる。

 

それでも青年は決して謝らない。

なぜそうなったかという、言い訳としか聞こえない弁解を繰り返す。

 

その職場は青年の希望や特性を考慮して紹介されたもので、決して支援者側が勝手に決めた場所ではない。にもかかわらず、青年は不平不満の嵐。

 

「やる気あんのか!」と怒鳴りたくなる。

この人は一体どうしたいんだろうか、このままでいいと思っているんだろうかと見放したくなるんだ。

 

頑張れない人々

 

「ケーキの切れない非行少年たち」でも書かれていたけれど、彼はどうしても「頑張れない」んだろうなと思う。

 

頑張りたいけど、心から頑張ろうと思うけど、結果的に頑張れないから、そこにそうしているんだろうと思う。

 

しかしその「見た目の不真面目な姿」に、周りからはあきれ果てられ、嫌われ、見放される。本人の本意に反して。

 

…なんて残酷なんだと思うよ。

 

「努力」と「我慢」

 

昔はなんでも「本人の努力」「親の育て方」の問題にされた。

 

でも世の中「必死の努力」を必要とするものなんて、実際にはそんなにないんだよ。

 

普通の人が普通にしていたら、そこそこ快適に暮らせるように作ってある。学校も職場も家庭も、社会全体のシステムがそうなっているんだ。

 

じゃあ昔はなぜあんなに「努力しろ」とか「我慢しろ」と言ったのか?

 

それはきっと、当時は脳機能障害なんて概念がなかったから、どうしてもできない人々を何とかするために苦し紛れにそう言ったのではないだろうかと思うんだ。

 

そしてそれでもできない人々は「自己責任」を理由に見捨てる。

見捨てるための詭弁として、「親の育て方が悪い」と言ったのではないだろうか。

 

愛情問題にされてきた

 

これって、つい最近までそうだった。

 

家族問題、学校や子ども問題のほとんどは「親や大人の愛情の問題」とされていたからね。問題のある子どもや親の、脳そのものに原因があるとは言われてなかったんだ。

 

今、それらの本を読んでみると、「これって単に脳機能障害が原因じゃないの?」と思うものがたくさんある。

 

だって、親の育て方で子供がそこまで変わるんだったら、恐ろしくて素人の親に子育てなんて任せてられないよ。

 

普通の親や子供であれば、それほど何もしないでも上手く回っていく。

ところがどちらかに(あるいは両方に)問題があれば、途端におかしな方向に流れていくんだ。

 

統計的には、親の関わりは「負」の時に影響を及ぼすそうだ。

暴力やネグレクトなどの虐待は、子どもの人格形成に影響するということだ。

しかしそうでない場合は、明らかな相関性はないと言う。

 

毒親も弱者

 

よくよく考えてみれば、毒親」と呼ばれる人々も「弱者」だと思うんだ。

 

暴言や暴力、理解不能な行動をとってしまう。

その結果、激怒され、敬遠され、嫌われる。

あまりの腹立たしさから、助けようという気さえ起こらない。

 

そうして深まった溝は、修復不可能なほど広がったままだ。

そしてその溝を埋めるためには、毒親ではなく、周りの人間が尽力するしかないんだ。

 

しかし毒親本人は、反省もなければ協力する気もない(ように見える)。

それで周りの人間は余計に精神を消耗し、疲弊し、見捨てたくなるんだよ。

 

親や子供が「普通」の範疇にない場合どうするのか、どう支援するのか。

そんなこと、解決するんだろうかと疑問に思うが、何とかしていくしかないよね。

 

知り切れな文章になっってしまったけど…